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最新バージョンとして生きるほかない私たち


3歳の子供がかわいい。

私のおなかに乗り「Oくんね ママのおなかから、うまれたがで」(土佐弁)と喜び、「Oくんはママの宝物で」と一切の疑いもなく断言する。死んだセミを持ってしみじみと「かわいそうやねえ」と言ってみることもある。お迎えの時間の少し前には「はやくママにあいたいよ〜」と愛らしく先生に訴えているらしく、お迎えに行けば「はやくママに あえれたよ〜」とにこにこしている。

5歳の子供もまだ十分にかわいく、だいたい上記のようなことを言ってくれる。「ママはみんなの たからもの」だそうだ。

悔しいのは、彼が3歳の時になにを言ってくれていたかをよく思い出せないことだ。こんなに説明が上手じゃなかった、あの頃のこの子はいったい、どこへ行ったのか。


そんな私だって幼児のころは母親が好きでたまらなかった。遊んでもらえるとすごく嬉しかった、片思いのようなぼんやりとした記憶がある。だが私はすでに母親との縁を切り、10年ほど会っていないし会うつもりもない。あの頃の私だって、どこかに消えてしまった。

そう考えれば友人もそうだ。ずっと変わってないようで、話が合わなくなれば容赦なく離れていく。
話が合っていた時の、今とは違う私たちは、やっぱりどこにもいないのだ。


そうか、生き物はいつも最新バージョンに上書きされているのか。


古いバージョンに固執していては現代の仕事に対応できなくなる。アップデートをクリックし続けるほかない。そう考えるとなおのこと、今の子供がかわいい。願わくばずっと先のバージョンまで、好意を持たれたい。サービス終了のその日まで。

愛してる。

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