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顔立ちが平凡であること

私は平凡な顔立ちをしている。

とりたてて悪く言われることも、すごくほめられることもない。「友達と似てて親近感わくわ」と言われたことは数知れず。

身長はほとんどのグループ内で一番低いので、覚えてもらうときは、おおかたそこが目印になるのだろうと推察する。


夫の周りに紹介されるとき、「こんなかわいい嫁さんもらって」という類の言葉をかけられることもなかった。友人の結婚式などでは、わりと聞く言葉だ。

それに対して夫の外見は友人から親族から旅先で会う人からよくほめられる。私はそれが嬉しい。

見目美しい人が好きだし、自分のどこか別の部分に、なんらかの魅力があって釣り合っているのだろうと、こちらも推察している。この考えは徹慢だろうか。逆に謙虚とも言えないか?こういうことは、実際分からないことですね。



宝塚でもKPOP でも、誰をとっても美しい人たちのなかで、特に顔が整っていて王子様のようなタイプが好きだ。何週間もかけて作り上げられた最高級の人形のような、無敵の顔とプロポーション。

にやにや眺める自分がありふれた顔であることを、私はいつからこんなに冷静に受け止めているだろうと、ふと思った。 


10代20代の頃は、当然のように特別かわいくなりたかった。バイト代をつぎ込んで買い込んだ化粧品でケアをして、新しい服を買えば、いつかはなれるかもしれないと願っていた。

それでも都会に出て美しい人を見かける機会が増えるにつれ、「あ、これ、そういう問題じゃないわ。つくりが完全に違うわ」と気づいた。

化粧で手足と首は伸びない。唇の形も二重の幅も輪郭も、ほとんど自前のもので決まるじゃないか。ここで私を救ったのは、ずっと描いている絵なのかもしれない。


私の絵はうまくないし荒いが、好いてくれる人はずっといた。見る側としても、大好きな絵はうまい下手関係なかった。最上級だけが好まれるわけじゃないし、たくさんの人に好まれればよいわけでもないことも、だんだん分かっていった。


そして、田舎で子育てをしている今。この平凡さは親しみやすくかつ目立たず、ちょうどよいと断言できる。美人だったらハードルがあがったり、すぐに覚えられて詮索されたり、たぶん大変だろう。

特に気に留められない自負。SNS 時代に心地よく過ごすためには、これぐらいがちょうどよいのではないか。

この思考が負け惜しみなのか、腹から思っているかを問われると、歯列正はしたいと思ってる時点で、やや負け惜しみよりなのかもしれないことは、断っておきます。

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