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心の筋トレはじめます

自分の心の機微を物い上げるには言葉をつづる作業が不可欠で、言葉をつづるには筋トレのような日々の鍛錬が必要だ。

その鍛錬をそろそろ始めないと、年齢とともにもったりとしてくる肉体の輪郭のように、自分という人間性の輪郭までゆるんでしまう切迫感に、ずっと、じわじわと襲われていた。


思い返せば、私にとって一番心地よく日々を文章にまとめることが出来ていたのは、mixiが流行っていた頃だった。日々起こる出来事の内容や掘り下げた心情を、書いては消し、見直しては修正し、すこし緊張しながら公開。読んでくれる友人の反応で、他者からの自分の見え方や友人の感覚を探った。

文字数の制約がなかったことと、写真が三枚に限られていたこと、みんながまだ友人の文章を読むことに新鮮さを感じていたこともあってか、心の柔らかいところが似ている相手を見つけられるのが嬉しくて、何かあればノートパソコンに向かい、心情を正確に写し出せるように文章に挑んでいた。


時代が流れmixiを退会すると、私からあふれ出た言葉たちもまとめて消え去った。けれど、ふわふわとした思いを、捕まえてぎゅっと固めて並べていく行為が、自分を自分たらしめる秘訣かもしれないという感覚は残った。

その後に登場したinstagramでも同じ作業を試みたけれど、読みやすさのために細かくちぎる改行のリズムが本心とずれていて、鍛えたいところにまるで効いてこない筋トレのような感覚から抜け出せなかった。それに、長い文章を読む人が減り、写真すら視界の端から流していく世界では、ゆっくりと固めた言葉は居心地が悪そうにもみえた。

いつしか、ノートやイラストの隅にいくつかの言葉だけが落とされていき、推敲されないまま眠っていることに慣れてしまった。言葉は私の表面を通り過ぎていき、内面は掘り下げられないまま、感性がしぼんでいく実感があった。


そして今思う。生活に流されてぼんやりと変わるまま消えるままに、心を手放していくのはもったいないのではないか。誰に、何に対してもったいないのかは分からないが、思うまま書いていけばそのうち分かるのかもしれない。分からないかもしれない。とりあえず今は、これからもどんどん変化していく人生の楽しみとして、忘れられていく現在の足跡をつけたいと思っている。もう一度文章をつづる筋肉を鍛えて、自分の心を鮮明にして、世界と向き合ってみよう。

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