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本の虫としての学び

図書館の本を前にして、食べきれないごちそうを目の前にするような感覚に襲われる人はどのくらいいるのだろうか。

理解しきれるかどうかは別として、ほとんどの題材に興味をそそられる。そして、今ここで背表紙に人差し指をひっかけ、カードとバーコードを赤い光にかざしさえすれば、なんとお持ち帰りができてしまう。手が届くように、お膳立てされている。

ああ、しかし、すべては読み切れない。生活にはぎっしりとやるべきことが詰め込まれていて、読書時間は寝る前の数十分しかないのだから。


十代の時、読みたい本を一生のうちに読み切ることは絶対にできないと気付いた。その絶望感は、今でもよく覚えている。

ずっと後には、読んだ本の内容を数か月後にすっかり忘れているむなしさも加わった。どんなに努力しても自分の思うすべてが手に入るわけではない、人生の究極の真理の一例がこれだ。それでもなにかは身になっているという希望は捨てていないが、冷静にそれはただの願望だとも思っている。

ただでさえ読み切れないという悲しみを抱えているのに、なんとか選んで読む本が私に与える憧れもやっかいだ。

「博士が愛した数式」を読んだら、数学が分かりたい、素数を美しく感じる感覚をちゃんと体感してみたいと思うのに、そこには大きな壁がある。数学の本で学んでこつこつ壁を削り壊していきたいところだが、私には次の本も待っているのでその時間がない。
トーベ・ヤンソンのェッセイを読んで憧れる孤高の島暮らしを、私がすることはないだろう。
赤毛のアンに出てくる浅はかなルビー・ギルスのような、誰をも魅了する美しい外見を表す記述を読むとわくわくするけれど、私がその容姿を得る日はこない。

憧れの雲を見上げているのが私の人生だ。


それでも、ここまで読める範囲で読んできて、分かったこともある。私の人生を本当に知っているのは私だけだということ。あらゆる人生が本になり得るし、あらゆる人は主人公だということ。

この人生という靴を履けない他の人からしか見られない素敵さが、自分ではわからなくともきっとあること。

誰より長く生きたとて、読み切れない本を残して死ぬだろう。でもせめて、自分という本には愛着を持っていたい。

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