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遊ぶということ〜『ホモ・ルーデンス』と吉阪隆正展〜

「遊び」という言葉にどのような印象を持つだろうか。小さな子供の「遊び」は微笑ましいものだとされるが、長じて学齢になると「遊び」はしばしば「真面目」な「学び」の敵と目されるようになる。「遊んでないで真面目に話を聞きなさい」などといった風に。さらに恋愛関係に基づき特定の相手と交際するような年頃になると、「遊び」に「軽薄」や「不貞」といった意味合いが加わる。「遊び」は、いい大人のすることではない、よくないことだとされてはいないだろうか。「母親が子供を置いて遊びに行く」と言った時、そこに全くネガティブなニュアンスが付加されていないと言い切れるだろうか。子供の頃は遊ぶことに何のためらいもなかったはずなのに、いつの間にか「するべきことをせずに怠けている」という影が「遊び」につきまとうようになって、どのくらい経つだろう。

1月の終わりに、ある映画を観た。そのことはnoteに書こうと思って結局ずっと寝かせてあるのだが、その中でカイヨワという哲学者の『遊びと人間』という著書の話が出てきた。映画は軽やかさと分厚さが入り混じった不思議なもので、とても刺激的だったため私はその本を読んでみたいと思った。しかし同じことを考える人は他にもたくさんいるもので、地元の図書館では予約待ち。残念だな、と思った時に頭をよぎったのが、タイトルの書籍『ホモ・ルーデンス』だった。

ホイジンガによるこの本のことを知ったのは学生時代だった。ホモ・ルーデンス、「遊ぶ人」。それは学生時代の私にとって、目を覚まされるような響きだった。そうだ、これまでずっと我慢して過ごしてきたんだから、楽しく生きよう、やりたいことをやろう、と自分を肯定されたような気持ちになった。思えば勝手な解釈である。つまり私はタイトルだけを自分の都合の良いように記憶して、肝心の書籍の中身には全く触れてこなかったのだ。だが、前述のように「遊びと人」についての本を読みたいと思った時にこの本が浮かび、これは一度きちんと読んでみなくてはと手にとった。ちなみに、こちらは1件も予約が入っていなかった。

本の中では、古今東西の様々な具体例から「遊び」が論じられている。書き留めたいくつかを抜粋してみたい。
「遊びは否定されえない。ほとんどすべての抽象的なもの、たとえば正義、美、真実、善、精神、神などは、しようと思えば否定されうる。真面目だって否定されうる。遊びは違う。」
「動物は人間と全く同じように遊ぶ。じゃれ合う子犬の遊びは動物の遊びの最も素朴な形の一つにすぎない。さらに高度に発達した内容のものがある。観客を前にしての本当の勝負や、美しいショーなどがそれだ。」
「遊びの意味深長な機能については人間も動物も共通なのに、一方、笑いの純生理学的機能が決定的に人間だけのものであることは注目に値する。」
「遊びは自由な行為であり、『ほんとのことではない』としてありきたりの生活の埒外にあると考えられる。」
「遊びの情緒はその本性上はなはだうつろいやすい。いついかなる瞬間であれ遊びを妨げる外部からの干渉があったり、規則違反があったり、あるいは内部から遊びの意識が崩れたり、興ざめしたり、幻滅におちたりすれば、たちまち『ありきたりの生活』が自己の権利を復活してくる。」

言われてみればなるほど、と思う。「遊び」について深く考えたことはなかったが、確かに、といった感想だ。ホイジンガの「遊びの定義」は「遊びは自発的な行為もしくは業務であって、それはきちんと決まった時間と場所の限界の中で、自ら進んで受け入れ、かつ絶対的に義務付けられた規則に従って遂行され、そのこと自体に目的を持ち、緊張と歓喜の感情に満たされ、しかも『ありきたりの生活』とは『違うものである』という意識を伴っている。」つまり生活から分離されたところに「遊び」は存在するのだということだ。ホモ・ルーデンス、遊ぶ人。しかし、それは遊びが日常であるという意味ではなかった。

一方、また別の日に東京都現代美術館で観た「吉阪隆正展〜ひげから地球へ、パノラみる〜」は遊びと日常をつなげて考えている印象を持った。彼が生活空間を創る建築家だ、ということが理由だろうか。旅をし、街を歩き、高峰にも登る。自分の体から地球・宇宙レベルまで、思考が広がってはまた戻り、駆け巡っていく姿はそれ自体が「遊び」に映る。ホイジンガが挙げるような「ルール」もそこにはない。ただ軽やかに思索し、行動し、創造する、楽しく遊ぶ。1人でも、仲間とも。

さて、私は「遊び」をしているだろうか?

楽しいことがないわけではない。日常のルーティーンを少しだけ離れ、提供された場の中で刺激を受けたり、満足したり、そういった心が動く時間というものは間違いなく存在している。しかし、「遊んでいるか?」と問われると、これは果たして遊びなのだろうかと思ってしまう部分もある。私が思っている本当の「遊び」とは、もっと全てを忘れて解放されるようなものだった。あの晴れやかな「遊び」を、取り戻すことはできるだろうか。

冒頭に書いたように、歳を重ねると「遊び」という言葉に影がついてくるようになるような気がする。それはただの呪いや思い込みなのかもしれない。ホイジンガと吉阪隆正、2人の示す「遊び」に触れ、もう一度まっさらな自分に戻り「遊び」に没頭できる柔らかな心で生きていきたいと思う。

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