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創作『猫と魔女の花屋』①

オレンジの目の猫

22時過ぎ。
仕事で心身共に心地良い疲れを伴いながら自転車で家路につく途中のことだった。
ヒナは長い坂道にかかる少し手前で自転車を降り、ゆっくり手押しで歩き始めたときに、電信柱の根元で座っている猫に気が付いた。

猫が好きな彼女はついつい足を止め、声を抑えながら話しかける。猫は夜の影で分かりづらいけれど恐らく黒に近い茶系の毛並みで、オレンジのきれいな双眸は丸く光りながらこちら一点を見ていた。
「こんばんは、猫さん」
猫は鳴かずにずっとヒナを見ている。警戒しているのだろうと思った。
この辺りの野良猫かなと最初は予想したけれど、ふわふわな毛並みはいつも手入れされているように見えた。
「どこかのお家の猫さんなの?」
お家から出てきちゃったのかな、と言おうとする口は思わずむすんでしまう。猫は後ろ足に怪我を負っていた。

暗闇で分かりづらかったけれど、後ろの右足がだらりとしまわれていなくて。車に接触したのならもっと酷いことになっていたかも知れないから、他の猫と喧嘩でもしたんだろうか。
座っているというのは間違ってはいないが、それが「立てないから」と言うのがわかって、彼女はひとまず数メートル先で自転車を止める。前かごに突っ込んでいたナチュラルリネンのバケットハットを手に取った。
「猫さん、足痛いの?」
ヒナが一歩近づいていくと、ハーッと威嚇してくるオレンジの目。それでも彼女は時間をかけてそっと近づく。猫は前足に力を込めて立ち上がて歩き出すのだけれど、よたつく姿が痛々しくて、ヒナはもう一度猫に向き直った。跳んで逃げる事もできない猫。
「おいで」
もちろん猫は来ない。大丈夫だからとヒナは辛抱強く優しく声をかける。

怪我から菌や感染症があっという間に広がるのを知っているから、動物病院に連れて行かないといけない。今日はもう深夜に突入しているから、明日朝いちで病院に行って治療してもらおう。幸い翌日は午前休で、応急処置はできそうだった。
もし家庭があり名前も貰っている猫ならば、病院伝いに飼い主を探してもらう事ができるかも相談しよう。
ヒナの頭の中ではそんなスケジュールが秒で立っていた。
自分から触りに行くのはますます怖がらせると思ったから、彼女は持っていた帽子を猫に向けた。オレンジのきれいな目がきょとんとする。
「この中に入れる?」
そう言うと、猫の目はわずかに細まって、それから「ナァ」と少し元気のない返事をした。ヒナは「敵じゃないよ」の印に両目をゆっくり瞬きするともう少しだけ帽子を近づける。
……猫はまたよたよたと歩いて、まるでヒナの言葉が通じたかのように、帽子に潜った。やっておいて少し驚いたけれど、リネンから伝わる猫の温度にほっとした。

「ごめんね、帽子ちっちゃくて」
謝りながら、帽子ごと猫を自転車の前かごにゆっくり降ろした。猫はふわふわの毛並み。大きさは中くらいかなと思う。バケットハットとはサイズが違う感じがしたけれど、とりあえず猫を抱き上げられたしリネン素材で柔らかい帽子だから、タオル代わりになれればそれでいいと割り切る。 
これに関しては猫も文句は特にないらしくて、少し警戒が取れたからかかごの中で足の傷を舐めたりしている。
「ほんとは舐めちゃだめなんだけどね」
言いながらヒナは、自転車をゆっくり動かし歩いて坂を上り始めた。

家から職場への道には緩やかな山をひとつ上って下るような坂がある。
自転車で行きも帰りも上るのはしんどいから他の道も探したんだけれど、もっとぐにゃぐにゃした坂道か山を回避する遠回りの道しかなかった。
ヒナはまだこの街のことをよく知らない。前の仕事を辞めて心機一転引っ越しもして、この街の特に栄える通りの一角にある帽子屋で働き始めて、今日で15日になる。
休日は引っ越しの荷解き、近くのスーパーの検索、足りない日用品を買いに薬局に行ったりするくらいで、街の散策はまだなかなかできないでいる。

帽子屋と言ってもただ商品を売っているだけじゃなくて、いくつかのパターンからセミオーダーを承る事も多い。半分は店主がバイイングした商品で、半分は店主のハンドメイドだった。
今猫が大人しく入れられているのは、働きはじめて初めて買った店主セレクトの輸入品だ。今日はこれをかぶりながら働いた。
いつかは自分もセミオーダー品を作りたくて、休みの前日は遅くまで勉強している。
「小さいけど居心地良いでしょ」
かごの中の猫に言うと、猫は一度だけゆっくり瞬きをした。

本当はこの山も、小さな山なのか広い丘なのかよくわかっていない。
帰りの上りはまっすぐ緩やかで、下りはカーブになっている。道沿いにはちらほらと、デザイン性の高い大きな邸宅や別荘みたいなお洒落な家があって、木はあるけれど森ほど茂っていない。夜もそんなに怖くないから、この道を通勤路に選んだというのもある。
ヒナは自転車で過度に振動を与えないようにゆっくり歩く。街灯の下を通る度に猫を見るけれど、やっぱりよくいる野良猫とは違った風貌な気がした。
毛の色はダークチョコレートみたいな深い茶色で、柔らかくで艶のある質感。耳は大きめで、オレンジゴールドのような美しい目が何より印象的だった。
「わたしの名前はヒナだよ。きみの名前は?どこのお家の猫さんなの」
訊いてもにゃあとも言わないけれど、傷を負ったほうの足を浮かせてごろごろとリネンの帽子に擦りついていた。かわいい。最初の警戒は嘘のように人懐こい猫に、心の中で「はやくお家に帰れるといいね」と願った。

坂を上りきって、いつもは自転車にまたがり直して一気に下りるカーブの下り坂を、今夜は猫のために引き続き歩いていく。
歩道の白い線、等間隔の街灯。朝の景色とはまた違った雰囲気を味わいながら、ハンドルのブレーキを掴む強さに気をつけながら進んでいると、ひとつ向こうの街灯のそのまた少し先の暗がりにぽうっと温かい黄色の灯りが現れて、ゆらりと揺れた。
え、と思いながらそのまま近づいていくと、灯りは西洋風のランタンで、女性がそれを片手に坂道に出て来たのだとわかる。ヒナは少し怖くてどきどきしていた。前かごをみると、猫はそのランタンか女性かをじぃっと見つめている。

こんなところに脇道?なんてあったかしら。いつも朝は仕事のことばかり考えながら自転車をひいているし、夜は自転車で駆け下りるのでわからなかっただけなのかもしれない。
からからと鳴る自転車の音に気づいたのか、女性はヒナのほうに体を向けた。目が合ってしまったので軽く会釈をすると、向こうから「こんばんは」と言ってきた。
「こんばんは、」
緊張しつつ彼女のそばまで来ると、彼女はかごの中の猫を見てどこか安心したようなふうに肩の強張りを緩めた気がした。猫はナァ、と少し大きな声で鳴く。
「タンゴ、心配したんだよ」
女性はヒナと同年代か少し上の30代くらいの大人びた顔立ちで、黒髪は後ろに結われている。紺のローブのような丈長でゆったりしたワンピースを纏い、足元のアルミシルバーのバレーシューズが手元の灯りに当てられキラキラしていた。
タンゴ、と呼ばれた猫は嬉しそうに起き上がる。女性は猫の眉間を指でひと撫でして、「怪我をしてるね」と静かに言った。

このひとが猫の主なんだとわかって、ヒナはこの子を見つけたときのことを話す。
「本当は今夜はうちに泊めて、明日病院に連れて行こうと思ってたんですけど」
「そうなんですか。ありがとう、これから探しに行こうかと思ったんだけれど、もうすぐ帰ってくる予感がしてたの」
でもやっぱり心配で、店を出てきたところにあなたとタンゴがやって来たんだ。
猫を見つめながら話す彼女の声は、夜のためか静かなのに不思議と耳に心地よく透る。彼女の安心している顔を見て、ようやく自分も緊張がほぐれた気がした。ここでこの子を引き渡して帰ろうと思ったけれど、女性は猫から自分に向き直った。

「この、タンゴの下にあるのは?」
「あ、帽子です。敷物代わりになるかと思って」
帽子、と呟く女性はランタンを地面に置いて、その帽子ごとかごから猫を抱き上げる。
「この子のために、躊躇なくあなたの大切な帽子を使ってくれたんだね」
汚れるだろうに、こんないいリネンの生地なのに、と。
確かに汚れるだろうと思ったし大切なのも正解だけれど、特に迷いはなかったからよかった。
「大丈夫です、手洗いできる帽子だし、猫さんが心地よさそうにしてくれていたので」
「そうなの。本当に優しい方でよかった。ね、タンゴ」
またナァと返事をする猫。会話をしているみたいだった。

「ありがとう。ひとまず帽子についたこの子の毛は取ってお返しする。少しだけお礼もさせてほしいんだけれど。このあとご予定は?」
予定はない、というかもう22時半くらいで、わたしは帰るだけだ。でも猫を助けたわけじゃない。拾って帰路についていたところで飼い主が現れたのだから。ご飯も寝床もあげていないし病院にも行けていない。
別にお礼される程でもないと思ったからどうやって丁重に断ろうかと思っていたけれど、
「ひとまず店に入りませんか?美味しいサブレとハーブティーを用意するよ」
という言葉に興味を持ってしまった。そうだ、さっきも気になったのだ。
「お店、というのは……」
そう口にすると彼女は微笑んで、片手に猫を抱きランタンを持ち直してから、出てきた脇道に黄色の灯りをかざした。

暗がりだった細い脇道はぽつりぽつりと小さな照明を灯していった。遠隔で誰かが点けたんだろうか。仄明かりで標された小道は美しい様々なグリーンのプランターがいくつも並んでいて、まばらに低木の花が夜でも綺麗に咲いている。
足元はレンガが埋まっていて、何かの本で見たイングリッシュガーデンの雰囲気に似ていた。
「きれい、」
口からこぼれる自然な言葉に、先導する女性は振り返って「ありがとう、猫たちもここが大好きなんだ」と笑った。
他にも猫がいるんだなあと思いながら進んでいくと、人がぎりぎりすれ違えるような細い道が終わり、目の前には広く美しい緑の庭と、ぼうっと窓から灯りを漏らす一軒の白い建物があった。

「ここがわたしと猫の家で、花屋だよ」
ランタンをブリキの看板横のフックにかけてから彼女は言う。照らされた看板には「Katarina」というスペルがくり抜かれていた。

『オレンジの目の猫』


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