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自分の人生を生き切る決意

先日、今の学舎であるトランジションコーチングスクール(TCS)の合宿で、箱根に行った。よく「何で他のコーチングスクールに行ったの?」と皆に聞かれる。2年前にTHE COACH Academyでコーチングに出会い、学び、コーチとして独立するほどに、コーチングの道に呼ばれ、勢いで飛び出していた。

THE COACH Academyでは、人の本質的変容とは何かを常に問い続け、コーチングの道を探究し、それはこれからもずっと続くだろう。自分に向き合わずして、人の変容に寄り添うことはできないと、自己の内面に向き合い続けた。

その結果、コーチとして独立し、コーチングの提供にも手応えを感じ始めていた。けれど、自分の可能性にもっともっと向き合える余地があると感じていた。

THE COACHの体現するコーチングは本当に大好きなのだけど、心理的安全性を尊重した上で微かに何か甘さを感じていた。TCSでは、自分にないものがあると感じさせられた。僕はありとあらゆる理論や技を知った上で何かを選択したい。だから、あえて対極にあり、自分とは異なる、本質を感じさせられるそこに入った。(それは自分の宗教観によるのものだと後にわかる)

箱根の合宿の最終日、言葉では伝えきれないことが起きた。自分が一歩踏み出すこと、巡ってきたチャンスを自分で掴み取ること。過去の経験が、自分を留めるような気がした。一方で、背中を押してくれる存在も感じた。

Uの谷を潜り、自分の中にあったたくさんのものが場に表出した。これは表現することは難しい。だけど、僕は体の声を聞き、現れ出ようとしているその声を聞き、表現し、体現していた。表現し切った後は、空だった。その後、側にいた仲間がENになり抱きしめてくれた。たくさんの偶然が重なってそれが起きた気がした。


父との対話

箱根の合宿中に、父に電話した。6年ほど前に、母が癌で亡くなった。その後、父は寂しそうだったが、幸いなことに再婚するという報告を受け、息子である僕は心からうれしかった。父の寂しそうな姿をずっとみていたからだ。再婚した際に、手紙を書いたし、その後良く対話できるような関係になっていた。それでも、本音を伝えるということをまだやりきれていなかった気がしていて、その思いを電話でありのまま伝えた。

中学校の頃、軽いいじめにあった。そんなひどいものではない。思春期の子供なら、そんなことありうるというのは頭では理解できる。でも、普段一対一では仲のいい子が、集団になると遊びのような感覚で自分を除け者にするような在り方が、奇妙で歪だった。学校の先生がいじめっ子と仲良くしている姿が、僕の視点からはとても奇妙で苦しかった。

真面目だった僕は、たまたまサッカー部のキャプテンだったから、大好きだったサッカーで見返そうと力の入れ方を変えた。サッカーをやっている時は、人と繋がることができた。自分の得意なことだったし、プレーで怒りも表現することができた。次第に、サッカーは自分を生きるアイデンティティとなっていた。高校生になると、大好きだったサッカーが狂い始め、メンタルが弱いと、仲間のパスが受け取れなくなり、チームから必要とされないような感覚が辛くなった。

高校最後の試合、プレーの失敗で責められたくなくて試合に出たくなかった。そして、最後の交代要員の一人が残っている時、監督に呼ばれるか否か、とてもビクビクしていた。監督は、最後自分ではなく、違うメンバーを呼んだ。その時、不幸にも僕は安堵した。それは人生最大の不幸だった。自分が必要とされないことを自分が認め、サッカー人生の終わりを自分が望んだからだ。その試合は負けて、引退となった。人生で初めて男泣きをし、自分が崩壊した。

父に、いじめのことを話した時、「知ってたよ」と言われた。びっくりだった。「いじめとかあるの?」と当時どうやら聞かれたらしく、僕は親を心配させたくないから「違う」と言っていたらしい。親ができることはそっと見守ることみたいだった。

その時の対処は、たぶん僕にとってありがたいものだったのだと思う。一方で、心のどこかで気づいて欲しかったと願っていた自分がいる。大人になり、人に頼るということが苦手な自分がいることに気づいた。たまに「バレてはいけない」と頭の中で声がする。

それは、実は自分が弱くて、力がないのをバレないために、当時一人で頑張るための声が続いていたのだ。僕は人とうまくやるのが苦手で確かに弱い。でも今は、人に頼れる強さもあると思っている。僕には信念があるから。


宗教観と母の願い

もう一つ話したこと、それは自分の宗教観についてだ。教会の家で育ち、牧師の息子として育った僕は、キリスト教がいつも身近にあった。日曜日は礼拝があるから、友達はどこかで遊ぶ中、自分は教会にいるのが何となく次第に嫌になっていた。

今のこの年齢になり、結婚相手がクリスチャンであってほしいという親の願いも勝手に受け取っていて、それが負担だと父にも話した。それに対して、父は信じていると言ってくれた。とても素敵な親を持ったと思う。

父と和解したと思った時、実はそれは母からの願いの繋がりであることが見えた。成人する前から、教会の文化である洗礼を受けてほしいと事あるごとに母に言われていた。僕は大切な両親の元に生まれた、自信を持ってクリスチャンであるといえる。でも、洗礼という文化を親の願いから受けたいとは思えない。だから、節目ごとにそれを言われるのが嫌だった。

母は熱心な信徒であり、宣教師であった。神の恵みを伝えるために、たくさんの人と話していたし、それは僕の目から見てもどこからエネルギーが湧いているのか不思議だったし、そのあり方を見て本物だと思ったから、誇りもあった。でも一方で、ちょびっと過激な部分もあった。

例えば聖書に「世の終わりがくる」という表現があり、生きている間にそれが来ると熱弁されることもあった。iPhoneでSiriが導入された時、都市伝説的な表現を間に受けて、危ないものだ!と言っていたこともあった。

僕はそれがとても嫌だった。まず科学的に見て、人類の素敵な発明なのに、それを宗教的な観点から否定するのはとんでもなかった。何より嫌だったのは、それをもし友達に言っていたとしたら、自分達が信じているものが、変なものと思われるのが何より嫌だった。

大学を休学してベトナムで働いている時、母が癌であることを宣告されて、僕は実家に呼び出されそれを伝えられた。母に今の心境を聞いてみると「本当にやりたいことはやったし、何も思い残すことはない」と言っていた。父とも話したけど、それは真実だった。子供たちのことは何も心配ない。唯一心配なのは、自分が去った後の父の存在だと言っていた。自分のことを愛し、信じてくれていることがうれしかった。そこに何の偽りも影もなかった。

留学がしたくてトビタテ留学JAPANという奨学金のための、志望理由を書いたことがあった。ずっとそれを目標に動いていたのに、志望理由が全然書けなかった。選考ギリギリまで迫り、確か兄か父にようやく頼って、家族一丸で志望理由を書き直し、初めて家族を頼って、何かを進めた。書き切った志望理由書を見た時、母は「これはすごい証だ!コピーしてもいい?額に飾ろうか!」と言ってくれるまで、それはそれは喜んでくれていた。

結局、その奨学金は落選だった。たくさんの時間をかけたし、残念だった。母が願う洗礼は受けない選択だったけど、それを見せたおかげか、母は死ぬ前に悔いはないと言っていた気がした。僕にとって、家族にとって必要なプロセスだったのだと思う。

母が他界する直前、側にいることができた。寝ている横で、何かを何度も訴え出し、全然聞き取れなかったけど「精霊が来ている」とその時確かに言っていた、その5分か10分後、母は息を引き取った。

箱根で父に電話でその話をした時、父も同じことを聞いたらしい。死ぬ直前に、ずっと信じていたことが起こるなんて何と幸せなことだろうか!科学的にはそれは幻想かもしれない。思い込みかもしれない。でも、母が強く信仰したからこそ、それはきっと起こったのだろうと僕は思う。誰が何を言おうと、それはリアルだった。


自分の人生を生きるとは?

自分の人生を生きるとはどういうことだろうか?僕は教会の家庭で育ち、両親が信じる愛からくるメッセージをたくさん聞いてきた。だから、僕もクリスチャンであるし、神の存在は信じる。

一方で、仏教が信じること、イスラム教が信じることにも、真実はあると思う。だから、洗礼は受けない。僕が受けたいと思わないから。そもそも、宗教が違うから対立が起こることはナンセンスだ。幸せになるために信仰しているのに、グループが違うから争うのは訳がわからない。

信仰のズレが分断を生むのは僕は望まない。だから、僕はどんな信仰心にも、宗教がない人にもリスペクトをはらいたい。

クリスチャンだけど、全てが神の御技とは言いたくない。全てを綺麗事に収めたくないからだ。でも、人生には必要なことが必要なタイミングで起こると思う。だから、不思議なことや占いもあると思ったら信じるし、違うと思ったら信じない。スピリチュアルな感性も大事にするし、根拠を示す科学も大事にしたい。

どちらかに肩入れをすることはしない。俯瞰してみるからこそ、わかることもある。その意味で僕は二項対立であるバイナリーではなく、ノンバイナリーでありたい。それが僕(This is me)であり、それが僕が歩みたい道(This is the way)なのだ。

そして、僕はコーチとして人の可能性を信じたい。どんな人にも無限の可能性があると、コーチングという祈りの手段で、人に寄り添いたい。その素晴らしさを広めたい。母が熱心に広めようとしたように、僕が今信じたいと思うことを、同じ熱量で広めたいのだ。世界のあらゆる理論や、不思議な技を学んだ上で、綺麗事を言いたい。人は誰でも変われるし、自分の人生を生きることができると。



この文章を書いた後、近くの中華料理屋に行った。ぼーっとしながら外と眺めていると、ふとした瞬間目の前の空っぽの席に、若い日のワンピース姿の母が座っているように見えた。

目の前が涙でいっぱいになった。相変わらず不器用だけど、ここまで立派に育ったよ。その瞬間に立ち会えたことに感謝を添えて、笑顔でそう心の中で伝えた。


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