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他人の間違いやミスを指摘する資格

他人のミスや間違いを指摘するなら少なくともそれに関しては自分には何らの非がないということが前提であろう。

それは大人であろうと子どもであろうと同じ。

子どもは欠けたところがあっていいというのは、まだ不十分な自己の自覚ということだから、不十分であるならば大人のミスや間違いを鬼の首を取ったかのようにあげつらう資格はない。

では子どもである自分はいつから完璧になるのか。

大人になって働くようになれば完璧で一切ミスをしないのかという話になる。

実際大人になってみればわかるが、大人であろうと先生であろうと医者であろうと政治家や官僚や社長であろうとも、間違いやミスをしてしまうこともある。

ほとんどミスがないのはお釈迦さまやイエスさまのようなレベルの聖人君子であろうと思われる。

そういう意味ではイーブンなのだから、せいぜい指摘したとしても、「ミスは気をつけてください」ぐらいが精一杯であるはずだ。

それを必要以上に攻撃しようというのであれば、それなりの反作用を受けても仕方がない。

大人になってからも、例えば会社勤めでのヒラのサラリーマンが社長の間違いに対して、何か、もの申したいとすれば、いくらそれが正当な理由に基づいたことであっても、それは下手をすれば自分の立場を失うかもしれないというリスクを背負うことも覚悟しなければならない。

その覚悟がないなら、それは言わないか、言うにしても言い方に気をつけなければ、不利益を受けても仕方がない。

その不利益を全部受ける覚悟で、それでも言わなければという、大義名分や、あるいはやむに止まれぬ大和魂とでも言うべき動機があるならば、それは立派な心がけであろう。

しかし、その理不尽を受け止める覚悟がないならば、何も言う資格はないということだ。

それが良くも悪くも現在の社会の仕組みである。

例えば私の職場において、トップに当たる人が理不尽な決定や非科学的な決まりを作ったとする。

それには当然反発するとしても、やり方というものがある。

ただ単に非を認めろというのは通用する話ではない。

簡単に言えば、嫌なら辞めればいいという話になる。

あるいはその理不尽な決定を変える権限が得られるような地位に付くしかない。

これが現実である。

これが立場の違いというものである。

そのような目で自分の身の周りの理不尽を見るならば、それに対してどのように対処するか、その態度は変わってくるはずだ。

自分も若い頃は結局は特攻隊精神のような無言の抗議しか出来なかった。

しかし、自分の身を斬ることで数年後にやっと物事が変わったということはあった。

「肉を切らせて骨を断つ」を身をもって実践したのだ。

逆に言えば、そこまでやる覚悟がなければ何も変わらないということだ。

それは負け犬の遠吠えに等しい。

だから一つだけアドバイスをするならば、特攻隊になる気概でぶつかってくるなら、それだけの覚悟を決めなさい。

その覚悟がないならば黙って結果に甘んじよ。

そういうことである。




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