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はやく乗り越えようとするよりも

大好きな映画がある。
2010年に公開された、ジョン・キャメロン・ミッチェル監督作品「ラビット・ホール」
主人公を演じるニコール・キッドマンは、高校生が起こした交通事故により4歳の一人息子を8ヶ月前に亡くして…というところから始まる物語である。 子どもの事故死という重いテーマに関わらず、優しい音楽とゆるやかな流れで進むこの映画では、登場人物同士の対話がとても丁寧に描かれている。

映画の中にとても印象的なセリフがある。

大きな岩のような悲しみは消えないけれど、やがてポケットの中の小石に変わって、重さが変わり、耐えやすくなる。
忘れる瞬間もあるけれど、ふとポケットをみると、やっぱりあるのよ。

主人公の母が、自身の悲しい過去を重ねながら静かに語った台詞だった。

私の母には、大きな悲しみの岩が複数ある。長女(私の姉)の幼少期に事故に合わせてしまったこと、その後不自由な体になったこと、27年間でその生涯が終わってしまったこと。そしておそらく、その27年間は他の娘(私)に母親らしいことを出来なかったという罪悪感も。

姉の7周忌を迎える今年、母の岩はポケットに入る石ほどに変化しただろうか。私はなるべく母の幸せの一部になりたい。できることなら母のポケットに手を突っ込んで石を遠くまで投げてしまいたい。

だけど実は、私のポケットにも小石が入っている。
1つめは、姉を早くに亡くしたこと。2つめは、姉の介護に忙しい母親が私に全然構ってくれなかった幼少期のいくつかの記憶。
これらの小石は、当時の家族にはどうしようもなかった事。私が大人になればいい、と自分なりに乗り越えるために努力してきた。なのに、その努力が思いがけず母の悲しみに触れてしまうことがある。

先日のお盆休みの期間、実家に帰った際に母と喧嘩をした。強い言い合いになる前に私は居づらくなって、5泊ほどの予定を3泊で切り上げてきてしまった。 きっかけはくだらないことだった。母の勤務が夕方過ぎまであると聞いた私は、晩ごはんにとても簡単なパスタを作って帰宅を待った。母は帰宅してパスタを見た後、どんどん表情が沈んでいった。お礼を言われるどころか、とても悲しそうな顔だった。

母は未だに、私に「申し訳ない気持ち」があると言う。小さい頃から色々と一人でやらせてしまって悪かった、と。だから私が夜ご飯を作って待っていたことが、母には”夜ご飯を作らせてしまった”と変換されて、気持ちを曇らせていた。
本当は「そんなこと思わなくていいよ」と言いたい。悲しい顔しなくていいんだよ、と言いたい。でも、母の複雑な感情を無視したくもない、という気持ちが混ざって言葉が上手く選べない。選べないなりにもいくつか乱暴に言葉を交わし、それでも居られなくなって、翌日すぐに実家を出てしまった。
まったく、30近くにもなって大人げない娘である。 


東京へ戻った日の夜、母からLINEが届いた。

昨日はごめんね。わたしは、あなたに沢山のことをしてあげたくて。
"してくれること"を素直に受け取ることが、まだできない。

―その気持わかるよ。でもさ、たまには私からも何かさせてほしいな。

あなたには、申し訳ないという気持ちが強いのだと思う。だからこうやって、少し離れたところで話すのが一番落ち着く。

―そっか。それはそれで、ちょっと寂しいな。

そうだね。家に来ないでって言ってるみたいだね。でも違うのよ。

―うん、気持ちはわかるよ。ありがとう。

以前は互いに気を遣いあって、まともに喧嘩もできなかった。
それを思えば、喧嘩も仲直りもまだ下手だけど、少しは「良く」なっていると思う。

どこかのよく出来た物語の中なら、悲しみを乗り越えることは大きな波を越えるように描かれるかもしれない。でも実際は、悲しみを乗り越えても乗り越えても、跡形なく引いて無くなってくれない。
早く忘れよう、乗り越えようとどちらかが急ぐと、もう一人の悲しみに思わず触れてしまう。何気なく過去を思い出しては、大切な誰かと一緒に悲しんで。それを繰り返しながら、少しづつだが確実に変化しする、少しだけ耐えやすくなる。冒頭の映画のセリフ通り、それが悲しみなのだろう。

この小さな喧嘩は、私と母の2人でしかできない、互いのための不器用な対話の時間。そうやって、ポケットの小石のような悲しみを時々確認しあうことが、今すぐ乗り越えよう忘れるようと努めるよりも私たちにはずっと大切な取り組みなのだと思えた。
それが私の20代最後の夏休みだった。

Photo by m.imdb.com/

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