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3分間ミステリ「東京を走る蜘蛛」


 
「きゃっ」咄嗟に千紗は叫んだ。蜘蛛が、千紗の足元をちょこまかと駆けていたのだ。千紗は昆虫全般が苦手だ。だからこんな日本家屋に越してくるのはいやだと言ったのに。
 ずいぶん遠くまで来てしまった。仕方ない。東京にはいられないもの。東京にいた頃、千紗はよく東京を徘徊する巨大な蜘蛛の夢にうなされていた。蜘蛛はノボルを追っている。ノボルというのは千紗が好きだった男の名前。

 ノボルは所帯持ちの大学教授で、千紗との関係は火遊びに過ぎなかった。それでも千紗にとっては本気の、一度だけの恋。一生分の恋。それまでにも恋はしていたはずだったが、彼との恋の後ではその他の恋のことは何一つ思い出せなかった。

 ──もう会わないほうがいい。これ以上会うと、君は未練が残るだろう。
ノボルは淡々とした調子で言った。べつに僕は会いたくないわけじゃないんだ、とも付け加えた。そのとおりだったろう。ノボルとしては、千紗を永遠に都合のいい存在としてつなぎ留めておきたかったはず。この関係を続ける気なら、君は我々が進化しない系の生き物だ、と認めなければならない。教壇に立ったときのようにそう言いたいのだろう。

 彼は昆虫学の教授で、進化論についても、ダーウィンほど単純には考えていないらしい。進化だなんて一言では言えないもっと複雑なプロセスがあったのだ、と彼は主張している。

「とくに昆虫の辿ったプロセスには興味深いものがあるよ」

 興奮気味にそう語ったが、それもただの口説き文句だったのかも知れない。
 千紗は落第生だったし、本当は文学に興味があると気づいたときはもうあとの祭りだった。唯一最後まで興味がわき、実際に卒論のテーマにも選んだのは、蜘蛛だった。

 蜘蛛は怖かった。醜くて、気持ち悪い生き物。けれど、蜘蛛のなかのアシダカグモは益虫だと聞き、以来千紗はアシダカグモを恐れつつ熱心に観察するようになった。触れないので、男友だちに頼んで捕まえてもらい、籠に入れて観察した。そして、籠の中でアシダカグモが何度かゴキブリを捕食する衝撃的なシーンを目撃した。

 たぶんそのイメージのせいだろう。卒業が近くなると、千紗は毎晩のように巨大蜘蛛が東京中を歩き回る夢を見た。そうしてうなされている千紗をよくノボルが起こしてくれた。

 ──蜘蛛があなたを追いかけていたの。とてもこわい夢よ。
 ノボルは笑ったけれど、千紗は笑えなかった。ただそれだけのことではなかったからだ。夢の中の蜘蛛が、自分の中の欲求を表していることを、直感的に千紗にはわかっていた。

「おーい、この荷物、どこ置く?」
 外から夫が尋ねた。出会ってまだ三カ月。父の会社の部下だった男といまどき古臭い見合い結婚をした。卒業してすぐの決断だった。父は喜んだ。自分の部下で、しかもいちばん信用を置いている男と千紗をくっつけることができたからだ。

「そこに置いておいてくれる? 私の部屋の押し入れの一番奥」
 夫はその荷物を、業者の人と二人で運ぶ。二人とも全身に汗をかいている。
「それ重たいでしょ、母から譲り受けた古い化粧台よ。絶対に使わないものなのに、持っていけっていうの」
「まあお母様のものなら、大事にしなくちゃね」
 そうね、と千紗は微笑んだ。夫と業者の人が、次の荷物を運ぶために出て行った。

 それにしても、どうしようかしら、これ。千紗は押し入れに近寄り、そっとその段ボールを開け、中にしまってあるガンガンの蓋をわずかに持ち上げる。

 仄暗い中に、ガムテープで口をふさがれた汗だくの男が、生気のない目でちらっと千紗を見た。千紗はすぐに蓋を閉め、段ボールも元通りに閉じた。

「いい子だから、大人しくしていてね」

 置いては来られなかったのだ。ノボルは、東京の大切な思い出。一生分の恋だから。こうしてしまう自分から逃げたくて結婚を決意したはずだった。けれど、千紗の中にひそむ蜘蛛のほうが、足が速かった。

「しょうがないわよねぇ」と笑って、段ボールを撫でた。

 さっきの蜘蛛は、いつの間にか壁をゆっくりと這っていた。
夜の獲物の居場所を、昼間のうちに探しているのだろうか。

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