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赦せる日が来る

コロサイ3:13 2024 04 15 (月)
互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

これはかなり高度なキリストの律法です。このみことばの前にたじろぐかもしれません。人を赦すなど自分には無理だ、とても従えない、そのとおりです。クリスチャンと言えども生身の人間である以上は不可能です。しかし神さまは人間にできないことを聖書に書かせませんでした。実行可能なことだけを書かせました。できないことをしろと言うような無茶な方ではありません。ですから私たちが聖書に書いてあることで実行できないことは何一つありません。絵に描いた餅ではないからです。

聖書の命令には聖霊の裏づけが必ずあります。今日の「赦し合いなさい」は「赦し合うことができるように聖霊が助ける」という約束が含まれています。聖霊が私たちに代わって赦してくれるわけではありません。あくまでも私たちの営みなのですが、赦そうと意志を働かせるときに、聖霊が追い風を吹かせて実行に移せるように励ましてくださるわけです。

それにしても人を赦す、赦し合うというのは生半可なことではありません。赦さなければ自分も赦されないことがわかっていても、時間のかかることがあります。口先では赦しますと言えるかもしれません。けれどもそれで瞬時に傷が癒えるわけではなく、思い出すたびに何度も赦しを宣言しなければならないでしょう。イエスは言われました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイ18:22)。簡単には赦せない自分の不甲斐なさを覚えながら、茨の道を歩むかもしれません。

しかし私たちには主から赦していただいたという動かせない事実があります。イエスさまのたとえ話に (金額は私が替えていますが)、1億円の借金を棒引きにしてもらった人が、わずか1万円貸した相手に対して強引に返済を迫る姿を見たら、どう思いますか。恩知らずな人だと思うでしょう 。ですからあの人のことは赦せない、いや赦さないと言えばイエスさまに対して恩知らずになってしまいます。

また赦さないで、怒りを燃え続かせ、その人の不幸を願っていると、自分の精神と肉体を蝕むだけで、百害あって一利なしです。それは「自分で毒を飲んでおきながら、相手が死ねばいい」と願うようなものです。まったくナンセンスですね。この有害な営みからは早く離れなければなりません。復讐心を手放すのは死ぬほど辛いことです。有罪の相手を無罪放免することは痛みが強すぎます。

しかしイエスさまは十字架上でそれをやってくださいました。「神の前に有罪のあなたを無罪とするために、私があなたの罪を肩代わりして有罪となってあげた」。それはクリスチャンが人を赦せるようになるためです。「私があなたを赦したのだから、あなたが誰かを赦せないとは言わせませんよ」と語っておられるかのようです。いつか人を赦せた手応えを覚えて神をほめたたえることでしょう。


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