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信仰の完成者

ヘブル人への手紙‬ ‭12‬:‭2 2024 05 02 (木)
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。
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私たちの信仰生活は、「イワシの頭も信心から」とばかりに信仰を固く握りしめていないと失くしてしまうものではありません。主が信仰の「導き手」とありますから、信仰を保つ上での第一の責任はイエスさまにあります。私たちではありません。また私たちの確信にかかっているわけでもありません。もしそうなら信仰はまったくあてにならないものになるでしょう。それならそもそも信仰する理由がありません。

自分は頼りにならないと悟った私たちは、主の確かさに依存しています。キリスト教信仰は、猿型の信仰ではなく猫型の信仰と言われます (小猿が親猿にしがみつくのではなく、子猫が親猫にくわえられるように)。なにしろ主ご自身が私たちの信仰がなくならないように祈っていてくださっています(ルカ22:32)。

たとえ誰にも祈られていない気がしても、大祭司にして最高の祈り手であるイエスさまが祈っていてくださると言うのです。しかも24時間! 主はまた私たちの信仰の「完成者」ですからその責任を私たちと一緒に負われます。むろん私たちが何もしなくてよいわけではありません。信じ続け、信頼し続ける努力は不可欠です。信じることまで私たちに代わってくださるわけではありません。従うのは祈る人自身のすることです。

毎週の礼拝、毎日のデボーションで信仰のエンジンに給油します。ピンとくる日があってもなくても、続けるうちに絶妙なタイミングで必要なインスピレーションの与えられる時がやって来ます。「百年兵を養うは、この一戦のため」営々とした主との交わりが、愛する人々を助けるために役立つ日が来ます。自分のためだけでなく身近な人を生かすためにも私たちの信仰はあります。

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