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神の受容

エペソ人への手紙 5:1,2 2024 04 17 (水)
ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。

まず自分が神さまから愛されていることを認識しているでしょうか。神さまの前に完璧でなければ、罪がなければ、よく奉仕しなければ、人を愛さなければ、神に愛されないと思うなら、クリスチャンは全員愛されていないことになります。愛される基準はイエスさまを受け入れたことだけです。それだけで100%神さまから喜ばれ、愛されています。永遠に変わらない神の子になったのですから。

それ以外の行いはまったく必要ありません。たとえばイエスさまがヨハネからバプテスマを受けられたとき「聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と神さまから言われました (マルコ1:11) 。主はまだひと言も福音を語らず、奇跡もせず、何の働きもしていませんでした。それなのに神さまから全面的に受け入れられ、喜ばれていたことが人々の前で明らかになったのです。

つまり主を受け入れた人は何ができてもできなくても無限に愛されていることについては同じです。子どもは親から愛されるために努力する必要は本来ありません。もしそのために頑張るなら不健全な営みでしょう。しかし特別愛されている人とそれなりに愛されている人という階級はありません。信仰生活の度合いによって愛されるレベルが上下することもありません。目に入れても痛くないわが子への無限の愛を注いでいるのですから。「あなたは私の心を奪った。ただ一度のまなざしと、首飾りのただ一つの宝石で。」(雅歌4:9)。神さまが " あなたは私の宝石です " と言っておられるのではないでしょうか。

まずここを押さえるなら、神さまに倣おう、従おうとなるはずです。神の愛を聖霊によって内に注いでいただきましょう。ガス欠なのに走り続けるのは不可能です。そのためには十字架の愛を黙想するのがいちばんです。贖いについて書かれた讃美歌を歌うのもよいでしょう。こうして血潮を仰ぐなら、神さまの愛が込み上げてくるでしょう。そうすれば神に倣う力、神に従う力が湧いてくるはずです。契約の箱を担いだ祭司たちの足がヨルダン川に踏み入れたとき、流れは止まり、川底が現れ、何なく渡ることができました (ヨシュア3:15.16) 。信仰をもって踏み出せば、力は与えられます。

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