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新しい人

ガラテヤ2:19 2024 04 18 (木)
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。

これはいつのことを指すとでしょうか。それぞれがイエスさまを受け入れた瞬間です。「つけられた」と過去形、受動態であることに注意しましょう。私たちが自分でつけたのではないという意味です。そんな覚えはない、と言うのももっともです。救われたときたくさんのことが起こったからです。それらを一度で理解することはできません。その時から救いの恵みのプレゼントボックスを時間をかけて一つずつ開けてゆくことになります。罪の赦し、義と認められる、神との和解、神の子とされる、神の家族に入れられる、キリストのからだと一体になる、聖徒の交わり、御霊の実、キリストのかたちに成熟する道、聖霊の賜物、神の奥義を悟る、永遠の命、キリストの婚約者、神の国の相続人、などなど。

きょうのみことばは「義認の恵み」を語っています。しかしパウロはユダヤ人の宗教観念から切り込んでいるので、少しわかりづらいかもしれません。彼らは律法を落ち度なく実行することによって神に受け入れられる(義とされる) と信じていました。中でもパウロはその点において超エリートでした。けれどもあるとき信仰の大転換を強いられます。復活のキリストが問答無用でパウロに現れたからです。イエスに従う者どもを迫害することが神を愛することなのだと信じて疑わなかったのに、敵としていたイエスが他でもないキリストであることを悟るのです。

それから三日間、盲目の中でイエスさまから直に教えられたのかもしれません。「人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められる」(ガラテヤ2:16)。これは天地が逆さまになるような出来事でした。彼の心境を想像してみると、「いったい自分は何をやって来たのだろう。良かれと思ってして来た律法の行いによっては神に受け入れられないとは!しかし今や、律法により頼んでいた自分がキリストと共に十字架に磔となって始末された。信仰によってだけ神さまに受け入れられる身となったとは、言葉に尽くせない幸せだ。」。

こうして律法主義が死んだのはいいのですが、それだけでは霊 (人格の核) が空洞のままです。ですから神さまは時を移さず信仰によって生きるために聖霊で彼の霊を満たしました。それをこう表現しています。「生きているのはもはや私ではない。キリストが私のうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:20) と。復活したキリストが聖霊によって自分の中に永久にお住みになるとは何という光栄!この境地は旧約の聖徒たちが喉から手が出るほど渇望したものです。

「わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。」(エゼキエル11:19)。その預言が自分の上に成就したことに身が震えたことでしょう。しかしパウロだけのことではありません。主を受け入れたとき、私たちにも起きたことです。この奇跡中の奇跡を感謝するなら信仰は奮い起こされます。私たちほど幸せな人間は世の中にいないのです。弱さを覚えるとき、初めの愛に立ち返りたいと思います。

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