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人から研がれる

箴言 27:17 2027 04 25 (木)
鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。

自分が自分に対して抱いているイメージと、人が自分に対して抱いているそれの違いに、良かれ悪しかれ驚くことがあります。自分のことは自分がいちばんよくわかっていると同時に、けっこうわかっていないものだということでしょう。この矛盾が混乱を起こすのだと思います。世の中に理論整然とした人はいても、矛盾なく生きている人は誰もいません。またどんな人も総体的にはまともでも、どこかトンチンカンな部分があるものです。ある領域については偏屈であり、幼い場合があります。歪んだ価値観を持っていて人間関係に厄介さを持ち込みます。しかしこういう部分的な歪みは自分ではなかなか直せません。あまり問題を起こさなければ気づきませんし、気づいても直すほどの事でもないと思えばそのまま天国まで行くでしょう。

けれども現実はそう甘くありません。変化を強要する人物が身の回りに存在するからです。伴侶でしょうか、親でしょうか、子どもでしょうか、職場の人でしょうか、教会の人でしょうか、地域の人でしょうか、必ず一人はいるものです。私たちの顔を研いでくれる人です (ところであなたの研ぎ石1号は? 研石2号は?)。刃物を研ぐのは難しいものです。下手に研ぐともっと切れなくなり、研がないほうがよかったとなりかねません。しかし自分の顔を研いでくれる「愛する人々」の腕前は一流です。その正確さには腹が立ちますが、ぐうの音も出ません (ときどき的外れなこともありますが)。

そのとき不承不承ながらでも研がれることを受け入れる人は幸いです。新しい自分を知るのです。人間、順風満帆のときは自分を変えようとは決して思いません。巡航速度で飛んでいる飛行機が、用もないのに予定以外の空港に着陸するでしょうか。けれども何らかのトラブルが起きたら、いちばん近い空港に何が何でも着陸せざるを得ません。人間は痛い思いをすればこそ、自分を変えるために行動を起こします。ですから人は他の人から研がれることを受け入れないと、決してキリストのかたちに成熟できません。何年たっても大人になり切れないなら、世界の光としての輝きがかげります。よりキリストの力ある証人となりたかったら、デボーションだけではなく、勇気のいることですが、人から研がれるリスクをおかしましょう。

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