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蒼色の月 #130 「第三回離婚調停⑤」

調停は夫とは別室で、実際に顔を合わせなくてもいいと聞いていた。
しかし、いつまでたってもらちが明かない夫の態度に、急遽体面で調停が行われることになった。
まさか体面になろうとは、想像もしていなかった私。
本当は夫になど会いたくもない。
でも引き返せない。
いや、引き返さない。
悠真の進学費用を勝ち取るまでは。

コツコツと廊下に響く私と結城弁護士の靴音。
きっと違う部屋でも、別の調停が行われているはずなのに、まるでその建物には私たちしかいないかのように物音ひとつしない。

調停室のドアが開いた。
そこにはすでに、夫と夫の弁護士が座っていた。
夫は見たこともない上等過ぎるスーツに身を包み、小洒落た眼鏡をかけている。それが美加の趣味なのか。
まだ私の夫なのにもう全くの別人。
スーツにも眼鏡にも、そこかしこに不倫相手美加の匂いがするようで吐き気がした。

私と結城弁護士は、机を挟んでその真向かいに座った。
テーブルをはさんで、距離はおおよそ2メートル、私は夫の正面に座らされた。
私は夫の顔を見ることが出来ずに俯いた。

「えー体面というご希望なので、このような形で進めていきます」
調停委員がそう言った。

「それではまずは、旦那さんにお聞きしますが、離婚したいという意思は変わりませんか?」

「はい。変わりません」
と夫は私を睨み付けながら言った。
久しぶりに聞く夫の生の声。
昔、私が大好きだった声。
今、私がもっとも恐ろしいその声。

「離婚したい理由は、性格の不一致と、奥さんの家事の怠慢とおっしゃいましたが間違いはありませんか?」

「はい。その通りです。間違いありません」
とまた私を睨み付ける。

「それ以外に、あなたが離婚を望む理由はありませんか?」
と調停委員。

不貞行為があるじゃないか。
そのために本当は、私と離婚したいんでしょ?
しかし正直にそんなことを答える人はいない。

「それ以外はありません」
自分に言い聞かせるためなのか、それとも私にか夫は大きな声でそう答えた。

「わかりました」
と調停委員。

「それでは、奥さんにお聞きしますが、奥さんは離婚の意思はないということですね」

私は大きく一つ息をした。

「…はい。私は離婚の意志はありません」

「その理由は?」
と調停委員。

「…夫は不倫をしています。相手がどこの誰かもわかっています。夫はすでに不倫相手の家で、不倫相手とその家族と同居もしています。夫はその女性と結婚するために、私に離婚を要求しているんです。なぜ、夫のそんな身勝手な要求に、私が応じないといけないんでしょうか。しかもこの先の話し合いもしないまま。そんな都合良くはいきません。子供だって3人もいるんです。夫は有責配偶者です。私は、離婚は絶対に致しません」と私。

「旦那さん、今奥さんがおっしゃった不貞行為の件に関して、思い当たることはありますか?」

「ないです」

「本当ですか?」

「はい、そんなことは全くないです」

ない?
なにがないの?
住民票まで移しておいて。
そうだ住民票の話をしよう。
いや、待て。
ここでこの話を掘り下げてはダメだ。
時間が無くなる。
今は、不倫したしないよりも、最優先すべきことがあるじゃないか。

「あの、すみません。それよりも長男の進学費用のことなんですが」
と切り出す私。

夫がおもむろに嫌な顔をした。

「はい、どうぞ」
と調停委員。

「先日センター試験が終りました。両親がこんなことになっている中、なかなか希望の持てる良い成績でした」

聞き入る調停委員。

「その後、第一希望の大学に願書も出しました。その大学の2次試験まで後一ヶ月もないんです。合格すれば2ヶ月後には、進学するんです。もう本当に時間がないんです」

「それは、そうですね」
納得顔の調停委員が身を乗り出す。

「今日、進学費用を出すのか返答をもらう約束でした。そちらの話を先にしていただきたいんですが」と私。

「そうですね。時間もありますから、まずそちらの話からにしましょう」
と調停委員。

「もちろん進学費用は、出してもらえるんですよね。夫は子供達にもそう約束してるわけですから。離婚云々よりも、ここはそのことを最優先で返事を頂きたいと思います。息子の大事な人生がかかっているんですから」
と私。

裁判所通いをして、私には一つわかったことがある。
それは裁判所は、本当に子供のことを親身になって考えてくれるということだ。
私の担当の裁判官がたまたまそうだっただけなのか定かではないが。
子供に対する裁判所の温情を、私はこの後何度も感じることになる。

「それは本当に時間がないですね。息子さん頑張られたんですね。進学費用を出すと旦那さんがお子さんに約束したんですか?」
と調停委員。

「はい。そうです。進学の相談があると夫を呼び出して、子供達3人と夫で話し合ったんです。そこで夫はちゃんと長男に対して、希望の大学に進学しても良いと言っています。お金も出すと言ったんです。だから長男はその気になって、今まで頑張ってきたのに。こんな進学寸前になって、やっぱりお金は出さないなんてそんな親として無責任なこと、到底ゆるせるわけがありません」と私。

「そうですね。それはちょっとひどい。ご主人、お子さんと話し合われたのは本当ですか?」
と調停委員。

「……」

「ご主人、今の奥さんの話は本当なんですか?」

「……」
バツが悪そうに黙り込む夫。

「ご主人、答えてください」

「でもですね…」と夫。

でもではないのだ。

「夫は確かに子供達と話し合いました。そして大学に進学してもいいとはっきり約束しました。どうしてもこの人が、そのことを認めないのであれば証拠もあります」

「え?証拠ですか?」
と調停委員。

「そうです、証拠です。こういう人なんで、あとで言っていないなんて言われたら困るから、録音したんです。受験なんて子供本人にとったら、一生の問題ですからね。私はその話合いに同席するなとこの人に言われたので、なにかあると思って録音しました」

「そうでしたか」
と調停委員。

「離婚したいという夫の意志は、わかりました。でも、離婚問題と子供の進学は別問題であると私は考えます。子供たちは私の子供でありますが、夫の子供でもあるんです。離婚したかろうがどうであろうが、子供に対する責任は夫にだってあります。それを離婚したら、進学費用は出すなんて交換条件は甚だおかしいと私は思いますが。父親として、子供にした約束を守ることは、離婚とは別だと考えます。親としても無責任じゃないですか。子供と約束していないとか言われると思ったので、今日録音を持ってきました」

私はICレコーダーを机の上に置いた。

「お子さんに約束されたのならね。今さらダメとはね。旦那さん」と調停委員。

言った言わないの、不毛なやり取りよりも、やはり証拠があるということは法の場にとっては絶対だ。
どんな場面でも絶対なのだ。
ICレコーダーを出したことで調停委員の態度が変わった。

「お子さんも、頑張ってらっしゃることですから父親として約束は守らないとですよね」と調停委員。

夫が、横にいる自分の弁護士を見た。
弁護士はハンカチで額を拭いながら、何も言わず夫から視線をはずす。
夫の顔がみるみる赤くなった。

mikotoです。つたない記事を読んでいただきありがとうございます。これからも一生懸命書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!