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「~のような」は並べて表現する/作家の僕がやっている文章術071

直喩は、ありきたりな例えでは陳腐にしかならないというお話をしました。

この陳腐さを逆手にとって、直喩の並列で世界観を描く方法があります。

<文例1>
「さぁ、ずっとお這入(はいり)なさいよ。檀那(だんな)はさばけた方だから。遠慮なんぞなさらないが好(い)い。」轡虫(くつわむし)の鳴くやうな調子でかう云ふのは、世話をしてくれた、例の婆あさんの声である。
【雁/森鴎外】

小説のストーリーは、お玉という女性に惚れた檀那(高利貸しの末造)のために婆さんが仲介をして料理屋の部屋で待つお玉と、その父親のところへ連れて行くところです。お玉は、末造の妾(めかけ)になる段取りなのです。

<文例2>
末造はその話の内容を聴くよりは、籠(かご)に飼ってある鈴虫の鳴くのをでも聞くやうに、可哀らしい囀(さえずり)の声を聞いて、覚えず微笑む。
【雁/森鴎外】

森鷗外は、ここではお玉の声を鈴虫のさえずり(のようだ)と表現しているのです。

この直喩の対比によって、婆さんとお玉のキャラクターが対照的に描き出されているわけです。

小説のストーリーでは、お玉が末造に囲われているのは無縁坂にある家でした。

『雁』の主人公、医学生の岡田は、お玉と知り合いになっていて、お互いに惹かれ合うのか、恋までいたらないのか、あやふやな感情でいます。

明治時代の恋愛というものは、そうしたものでした。

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岡田が無縁坂に散歩に出ると、お玉の家の前に人だかりができていました。

<文例3>
集まってゐるのは女ばかりで、十人ばかりもゐただらう。大半は小娘だから、小鳥の囀(さえず)るやうに何やら言って騒いでゐる。
【雁/森鴎外】

森鴎外は、ここでは群衆になっている少女たちの騒ぐ声を、小鳥のさえずりと直喩しています。

婆さんの声=轡虫
お玉の声=籠の中の鈴虫
少女たちの声=小鳥のさえずり

対比される直喩。それも安直な直喩です。

ところが声の直喩に限定して、シーンの焦点で横並びのように対比させることで、すがたかたちを詳細に描写することなしに、3者の人物像を読者に想像させることに成功しているのです。

森鴎外は、おそらく意図的に、直喩の並列を書いたのではないかと推察します。

<文例4>
トラックのタイヤに轢き逃げされて、つぶれたような右足を引きずり、アイスピックでかき回されたような目玉をまぶしそうにまばたきしながら、包帯を巻くのを忘れたかのような、赤く膨らんだ右腕を伸ばし、頬袋でもついているのではないかと思えるような下ぶくれの顔を身体よりも前にズイッと差し出して、
「今日の稼ぎは、2人分喰えるくらいはあるのか」
と男は、尺取り虫が鳥に睨まれて直立したかのような女に尋ねた。

ブルーシートのテントは、悪魔の号泣のような雨に叩かれて、いまなら大きな鯉が飼えるほどの水たまりを天井に湛(たた)えていた。
【天井のない家/美樹香月】

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直喩の連綿でホームレスの男と女とテントと天候と現状を書きました。

すべて直喩で修飾してあります。

平凡なモノ(男/女/雨/テント)と、非凡なモノ(かけ離れた概念)とを結びつけるように、例えていくと直喩の面白みが表現できます。

直喩は、本来は安直で、陳腐なレトリックです。

ただし覚悟を決めて安直のなかに斬り込んでいくつもりで表現すると、直喩の面白さが文章に表現できることがあります。


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