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当館収蔵の作家紹介 vol.9 川合玉堂(かわい ぎょくどう)

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当館には近代の日本美術を代表する作品を数多く収蔵しています。展覧会を通じて作品を見ていただくことはできますが、それがどんな作家、アーティストによって生み出されたものなのか。またその背景には何があったのか。それらを知ると、いま皆さんが対峙している作品もまた違った感想をもって観ていただけるかもしれません。
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この連載で今回取り上げるのは川合玉堂。画業においては誰もが知るところですが、何よりも自然を愛し歌も詠む風流人でした。日本が大きく様変わりする明治、大正、昭和の3時代を見つめて描き続けた作品。それらを前にすると私たち日本人はかつての人々の暮らしの愛おしさと自然の尊い気配に包まれるのです。
川合玉堂の作品は、2024年5月25日までの展覧会『懐かしの景色を訪ねて』でご覧いただけます。

《紅白梅》左隻 1919年 6曲1双 紙本金箔彩色 玉堂美術館蔵 提供/玉堂美術館
 《紅白梅》右隻 1919年 6曲1双 紙本金箔彩色 玉堂美術館蔵 提供/玉堂美術館

川合玉堂 (Gyokudo Kawai)1873-1957
愛知の豪族の分家に生まれるが、7歳の時に岐阜に移住。当地で筆、墨、紙を扱う文房具屋を始めた父の影響により8歳くらいから筆を持ち始めたとされる。1887年(14歳)四条派の望月玉泉に入門。1890年(17歳)上野で行われた第3回内国勧業博覧会に入選するが、上村松園が若干15歳で一等褒状を受賞してしまったので、霞んでしまう。とは言え先生を追い越してしまったため、新たな先生を求め、京都に移り住み幸野楳嶺に入門。1895年(22歳)京都で行われた第4回内国勧業博覧会で橋本雅邦の「龍虎図」を見て衝撃をうけ、翌年先生を雅邦に鞍替え。彼らの創った日本美術院に自動的に加入。1915年(42歳)東京美術学校の日本画科の教授になる。1940年(67歳)文化勲章を受章。第二次大戦時に疎開した青梅市に居を構え、結局死ぬまでそこで過ごした。

提供:玉堂美術館

現在その居の近くに「玉堂美術館」が建てられている。この美術館建設には、昭和天皇の妻であった香淳皇后が深く関わられており、今で言うクラウドファンディングで建設された。また横浜にあった別荘「二松庵」は建物自体、火災で消失したが、庭園は横浜市の名勝にも指定されている。

絵画的に見てほしいのは、花鳥なども描いているが、風景画。近代的な遠近法を用いながら、水墨画のようなぼんやりした筆致を併せ持った作品が特徴的である。この画風は円山四条派の優しい線で表された世界と堂々とした品格の狩野派や琳派などを学んでいるためで、様々な画風の良いところを上手く混ぜた画風と言える。

《多摩川渡頭春色》三木美術館所蔵

年代によって中国的な水墨画(雅邦の影響)から段々と日本の牧歌的な優しい風景画のように変化していくが、すこし地味だが詩情あふれる作品が多いのが特徴である。特に晩年に描かれた風景は庶民的な日本の文化が描かれることが多くのどかで、今でいうと「癒やされる〜」「マイナスイオン感じる〜」「第一村人発見!」といったところか。

《秋春》1995年 パブリック・ドメイン

                             [企画・編集/ヴァーティカル 作家紹介/あかぎよう]  



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