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スキルアップの虚しさを埋めるには

作:おがくずにゃんこ
※本記事は無料で最後まで読むことができます

タイトルに使わせてもらったが、「スキルアップ」という言葉は嫌いだ。

「新入社員の皆さん、ぜひ早いうちからスキルアップして、第一線で活躍してください」
「これからの時代はプログラミング!あなたもスキルアップして年収UPを目指しましょう!」
とか、ゲームのレベルアップみたいな気楽さでスキルアップを推奨してくる人で溢れかえっている。

しかしながら、スキルアップした先には何が待っているのだろうか

誰もが何かを高め続けているのだろうか?

最も典型的な答えは、就職先が見つかるということだろう。

しかし就職活動に関していえば、企業が求めるのは本当に「スキル」なのだろうか。例えば簿記の資格を持つ職員を雇いたいと考えたとき、「資格はあるけどやる気のない人」と「資格はまだないけどやる気のある人」がいたとき、どちらを採用したいと思うだろうか。

先程の例は自明すぎるが、就職にしても年収アップにしてもその他自己実現にしても、本当に必要なのはスキルではなく気持ちなのだ

だが人間は分かりやすいラベルを求めてしまう。人間性を理解するのは時間がかかるからだ。よく面接なんかで「人となり」を知ることはできないと嘆くが、では分かりやすい基準は何かというとスキルや資格になってしまう。わけのわからないインフルエンサーの肩書とは違い、何かしらの権威が発行するライセンスというのは明確な基準になる。

資格を持つというのは、特に人気職種では都合が良い


一方で、そうやって学校や企業によってお膳立てされた「スキルアップ」のレールに乗っかった方が楽だと思ってしまっている自分もいる。ボーナス金というエサをぶら下げられたり、留年というムチを見せつけられたりすれば、頑張って資格を取るところまではやろうと己を奮い立たせるだろう。

やはり資格というのは自分にとってもわかりやすい基準になる。自分が何をできるのかアピールする材料になる。そしてとりあえずこの資格を持っていれば転職先はあるだろうとか、食べるのに困らないだろうという、自分にとっての安心材料となる。

でも結局就職活動の例で述べたように、資格というのは安心材料にはなるが決定材料にはならない。なぜなら転職などのチャンスを掴む要因は、資格の有無よりも熱意の方が大きい(さらに言えばそれよりも運要素が大きい)。

そんな風に考えると、資格のためにスキルアップしようと思ったり、何かしらのスキルを高めようとする営みというのは虚しくなる。どうせやっても意味がないと、虚しく感じて実際の行動に移れない。そして行動に移らないから手持ちのスキルはずっと変わらず、現状維持し続けることになる。

とりあえず何かをしていると安心するというのもある


そんな虚しさをどうすれば変えられるのだろうか?
もう少し詳しく言えば、スキルアップするために努力することにはそこはかとない虚しさがあるが、そうではなくもっとやりがいを持ち、虚しさを埋めるにはどうすたらいいのだろうか?

最もよくある答えは、スキルアップの先にあるゴールを見据えすぎず、学んでいるそのプロセスを楽しむことだろう。

これには容易に反論できて、それができれば苦労しないわ!そんな風に楽しめるのは一握りの人間だけだよ!と思うだろう。

しかし最近話題の「葬送のフリーレン」を読んで、そのハードルは思ったよりも低いのではないかと感じた。主人公のフリーレンが、弟子のフェルンに対して「魔法は好き?」と問いかけた場面がある。彼女はこう答えた。

なんというか、ほどほどに楽しめればプロセスのどこかに楽しさを見出すことはできるのだ。

そんなほどほどに楽しめるキャラクターが「葬送のフリーレン」の魅力だが、魔王を倒した勇者ヒンメルまでもが「魔王を倒す」というゴールがありつつもそこへと至るプロセスをどこまでも楽しんでいる。

それにしてもヒンメルは近年稀に見る真の勇者といえる

何時間勉強すれば取得できるか分からない資格。
何年後かわからない出世。
いつ来るかわからない大恐慌。

そういったものを見据え、ひたすらリスクを回避するためだけにスキルアップすることほど苦しいことはない。何か少しでも、楽しめる種があればそれを育むことで虚しさは和らぐのではないだろうか。

もちろん苦しんだ時期があったことも、支えになる。フェルンの場合だって、最初は自律するために必死で研鑽を重ねたからこそ、フリーレンが認めるレベルの魔法使いになったのだから。


…わりといい感じの結論を導き出せたのでこれで終えても良いかなと思ったが、もう少し突っ込みたい。

虚しさを埋めるにはスキルアップのプロセスそのものを楽しめば良いというのが先程の結論だが、そもそも虚しさを感じているのはそれが出来ないからではないだろうか?

さらに壮大なことを言ってしまえば、どうせ楽しいことなんで自分には何もないのだから、すべては虚しいだけで、あらゆることは暇つぶしに過ぎないのではないだろうか?

これについて段階的に考えていきたい。

パスカルは、「人生は死ぬまでの暇つぶし」という言葉も残している


まずは「あらゆることは虚しいだけ」という大きな問題について考える。

この点について非常に深く突っ込んだ本がある。その本は2022年の東大・京大でもっと売れた本とのこと。

この本では虚しさではなく「退屈」という言葉を使っているが、現代人がなぜ退屈を感じるのか、そしてなぜそのことで苦しむのかについて倫理的、哲学的に考察している。もしあらゆることに虚しさを感じるほどの重症であれば、一読をおすすめする。本記事では本書から若干結論を引用し、解決案を提案する。

その解決案というのは、一言でいうと「遊びつくせ」である。

そもそも人間は「忙しい」と口にする人ですら、暇な瞬間がある。何かに追われているようでいて、そうやって自分を追い込むことで虚しさ(退屈)から逃げているだけだったりする。それは「豊か」とは程遠い位置にいる。

だからこそ、退屈だからこそ、楽しいと感じることを増やす。暇つぶしのゲームですら虚しいのなら、それ以外で虚しくないものを探索する。色々試して、これなら持続的にできると一定期間思えるものを見つけ、ちょっとだけやってみる。それが人間として生きるということではないかという、私なりの提言だ。


ではちょっとでも自分の興味を持てる分野ができたとき、そこでのスキルアップのプロセスでの虚しさを和らげるにはどうすれば良いのだろうか?

これについては、意外と周囲の声が大事ではないかと思う。

誰しも一人では生きていけないという言葉は100万回ほど聞いたことがあると思うが、やはりそれは真実である。自分が今生きているのは、誰かが作った食料を誰かが自分の手元まで運んできてくれて、それを口にしているからだ。一緒に暮らしていなくても、どれほどか細い糸でも、繋がりは何かしら存在している。不要かもしれないが、このnoteにいいねをするだけでも、私と接点ができる。

ならば、誰かから、何かしらの期待を自分はされていないだろうか

もちろんそういった期待が辛い場合もあるが、多くの期待というのは無意識のうちに向けられている。そして無意識のうちにそれに答えるように動いている。集団生活を営んできた人類には遺伝子レベルで「協力する」ことが刷り込まれているのだから。

もし自分は誰からも期待されていないと感じる完全な引きこもりの人であれば、逆にそれは強みと思って良いのではないだろうか。

その気持ちが「不満」となり爆発すれば無敵の人かもしれないが、「楽しさ」起点で爆発すれば、少なくとも誰か1人は救える。孤独だったとしても、誰でもヒーローになることはできる。ありきたりな言葉を使えば、孤独なときの渇望は強力なエネルギー源たり得る。

期待無しに人間は生きていけない


長くなったが全体をまとめると、スキルアップの虚しさを埋めるには、プロセスを楽しむこと。もし楽しさ自体を感じないなら、まずは遊びつくすことから始め、周囲の期待に答える方向へ少しでも向かっていくこと。気付いたら魔王を倒していたまではいかなくても、気付いたら資格取れてたが理想。

個人的に思うのは、絶対的な向上や、永続的な興味関心というのは存在しない。あるのは断続的に移ろう興味関心の変化だけで、だからこそ、あまり意地にならず自分の興味関心の「波」を揺らぎながら人生という海の冒険を続けるのが良いと思う。よし、良い感じにまとまったので今回はこの辺で。

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