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葛西城東まぼろし散歩#12/砂町06

参拝の後、裏の富士塚に回った。「砂町の富士塚」である。
由来を引用する。
「富賀岡八幡宮の富士塚は、江戸時代末の天保4年(1833)までに、富士講のひとつ山吉講によって作られた富士塚です。
江戸時代後半に爆発的に広まり、「江戸八百八講」と称された富士講は、信仰の対象であった富士山のうつしを住居の近くに築きました。富士塚に登ることによって、本山に登山するのと同じ功徳が得られるものと考えたのです。
砂町の富士塚には頂上に向う登山口として、正面(西)に吉田口を、背面(東)に大宮口を、右側面(北)に須走口を作っています。現在では途中までしか行けませんが、中腹を真横に周回できるように中道巡りの道が作られています。右(北)には宝永山を表す小さい高まりを作り、塚に左裾には胎内と呼ぶ横穴を作っています。頂上に登り、富士山の方角を拝すると浅間嶽大日如来碑と対面するようになっています。
塚はもともと30mほど北にありました。当初は土山だったようですが、昭和8年(1933)水害のため形が崩れたので表面を溶岩(伊豆黒ボック石)で固め、昭和37年(1962)現在地に移築されました。
塚に付随している数多くの富士講碑により、現代まで続く富士講の活発な活動をうかがうことができます。
平成18年(2006)2月 江東区教育委員会」


嫁さんがしきりに写真を撮ってた。撮ってどうするんだと思ったが・・口にはしない。携帯写真ってたいした衝動力だ。携帯で写真が撮れるようになると・・ここ30年余りだが・・みんな挙って写真を撮る。一回くらいは見るのかな・・あとはアーカイブされないまま放置される。
そういやずいぶん前に、こうした各携帯から撮られた写真をいっぺんにデータ化して巨大なライブラリを作ろうという話が有ったな。プライバーシというやつで霧散したけど。世界で出されている携帯で撮られた写真を自由に駆使すれば・・こいつはすごい史料になるんだがなぁ~そんなことをツラツラと思い出していた。
僕は‥さすがにくたびれてすぐ傍らに有った柵に腰かけていた。
「前に船堀へいったとき、あそこにも富士塚があったわね」と嫁さん
「ああ。船堀日枝神社内にある富士塚だ。富士講は江戸市中に多いんだが、今の江戸川区に何故か富士塚は多いんだ。まあ本殿は亀戸の浅間神社だからな。ここも葛西のお引きずりだな。大島の塩地蔵と同じ経緯で作られたのかもしれない。文化としてみるなら、江戸時代はこの辺りより葛西のほうが旧いからな。砂村は新興地だった・・ということだろう」
「富士塚って富士講のシンボル・・だったわよね。船堀へいったときに言ってたわ」
「ああ、神仏に・・というよりもっとアミニズムに近い信心だ。角行藤仏という人がいた。まだ江戸が始まる前の人だ。長崎の人でね、この人が富士山の人穴で修験し得た霊験で人々の病を治したんだ。この人を慕う人々から始まったのが富士講だ。講社として興したのは赤葉庄佐衛門だ。江戸時代・京保のころに出た指導者食行身禄が大きくこれを広めた。
富士講は加持祈祷が中心で時代と共に宗教ビジネス化してからな。最初は人心を惑わすことが多かった。だから新興宗教についてはあまり関心がなかった幕府も、目に余って禁令を布いたりしたんだよ。
享保の頃に台頭した食行身禄は、富士講から呪術的な部分を締め出したんだよ。そして富士講の要諦を「正直と慈悲をもって勤労に励むこと」にした。・・明治に入って唐突に生まれてきた"江戸しぐさ"な。アレに近い。心学なんかもそうだが、朱子学陽明学サムライマインドの傍系として再構成されたんだ。本質は"家業を真面目に勤めることが救いとなる"という教えだ。」
「わかりやすかったのね」
「ん。大きな根は"和合"だ。善は正しきもの。講社は3つを掟とした。
①良き事をすれば良し、悪しき事をすれば悪し。
②稼げは福貴にして、病なく命長し。
➂怠ければ貧になり病あり、命短し。」
「なるほどね。でもそれって富士山信仰にどう重なるの?」
「きついこと言うな。富士山での阿蘇山でも・・イワシでもニシンでも、善行は人を育て福報をうける・・てぇもんだ」
「なるほどね」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました