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ものかきものがたり:4行め 「方便」

バブル期初頭。
上京し、東京某アニメ学院シナリオ科に入学した愚かな青年は。そこで、物書きへの道が遠いことを再確認する以外、何も得られなかった。失望と不安だけがつきまとう1年。そして2年目には、青年はシナリオ科に通うことをやめてしまい、ただの高卒無職のおのぼりさんとなって……東京の片隅でくすぶるどころか、湿気って火もつかない埃ごみのような有り様になってしまっていた。

だが……青年は。故郷の三河には帰らず、東京の片隅、中野の一角のボロアパートに住み続けていた。
学院と連携した不動産屋に言われるままに青年が入居した、木造モルタル2階建てのそのアパートは――
鍵も満足にかからない玄関扉。何年モノかわからない、悪臭を放つ畳。
壁はひび割れ、ノミやトコジラミなどがその割れ目から夜になると這い出してきて体中を刺し、痒みで満足に寝られなかった。肌も、ぼろぼろになった。
通路に置かれた雨ざらしの洗濯機。ホースが繋がっておらず、近くにある水栓からバケツで水を汲んできて洗濯桶に入れて使わねばならなかった。しかも、排水はアパートの路地に垂れ流しで。

住人も、ほぼ最悪――
隣の住人は、おそらくアルコールか薬物にやられていて。昼夜を問わず、不定期で絶叫、悲鳴を上げる。それが獣じみた意味不明の叫びならまだしも、男の金切り声で『ワタシは 私でえええす』『もう死にてえよおお』『電話した でんわしたじゃあああん』などと、気絶するまで叫び続けて……若くて、まだタフだった青年の精神もだいぶまいってしまう。
さらに最悪なのが、上階の住人。青年と同年代か少し上ぐらいの大学生か何かだったが、いつも泥酔して仲間たちと帰ってきては、上の部屋で飲酒して騒ぎまくる。カラオケボックスもないあの時代、その学生たちは朝まで大声で歌いまくる。寝られない青年がたまらず文句を言いに行くと、その場で囲まれて袋叩きにされた。
さらに、ドアを勝手に開けて押し入ってくるヤクザみたいな新聞屋押し売りとの悶着。これが新聞各社の数だけ、ほぼ毎晩、来る。

風呂なしのアパートでは、体を洗うにも――近場で、使える風呂は営業停止レベルに汚い銭湯しかなく。番台のあたりからすでに漂う、小便と垢の臭い。黒カビに染まったタイルの目地。抜け毛と絡んで溜まった垢が浮島の如く漂う濁った湯船。そこで体を洗うしか無く。
最寄りのスーパーマーケットは、故郷の農協Aコープが天使の遊び場に思えるほどの、悪臭と万引きにまみれた退廃の市……当時はコンビニエンスストアも、まだない。
今思い起こしてみても、最悪極まる――
青年は、平日は毎日アルバイトに出かけ。そして日曜日の午後にアニメ学院の教室に向かう。そこで教えられるのは、ただただ、虚無。そして自分の決断が間違っていたと念入りに教えられ、叩き込まれる……空っぽの原稿用紙と向かい合うだけの、虚脱。
日曜夜の、中野に戻る中央線の電車の中で……青年は。真っ暗な電車の窓の外を虚ろな目で見つめながら。
「なんとかなる」「なんとかなる……」と。
崇敬する作家、開高健先生の青年時代のエッセイ、その中の台詞を自分でも繰り返して……いた。

現在のさまざまな基準に適合しない当時の生活の中で、バブル末期の東京は。田舎から這い出てきた貧しい若者に、そのきらびやかな顔を見せることはついぞなかった。

しかし、青年は故郷には帰らなかった。帰れなかった。帰りたくなかった。
失望と虚脱の中でも――否、だからこそ。
もはや逃避、妄想のレベルだった―― 物書きになりたい その妄念は青年の中から消えていなかった。
そして……物書きになるには東京にいなければならないと、青年は信じていた。
人生で初めて手に入れた自由を手放すこともできなかったし、田舎での人生に展望を見いだせなかった。ついでに、もし戻れば故郷の知り合い、親戚たちから都落ちと誹られることへの恐れもあった。

東京にしがみつくことしか選べなかった青年は――ボロアパートに住み、アルバイトで糊口をしのいで生きるしか無かった。
だからアニメ学院を辞めても、青年は――在学中から続けていた喫茶店のアルバイトは辞めなかった。
その喫茶店のアルバイトは、東京に住み始めて、いくつかの日雇いアルバイトのあとに見つけて、雇ってもらったようやくの真っ当な勤め口……のはず、だった。
東京の中野にあった、その喫茶店。
それまでサービス業に携わったことのなかった青年だが、喫茶店に雇われ、そこで簡単な料理とコーヒーの淹れ方を教えられ、身につけ。客商売の立ち回りを身につけ。

その店の常連客は、夕方から出勤してくる水商売のお姉さん、そして店のスタッフから「あの人達には関わったらダメよ」とこっそり教えられるほど、ヤクザが多かった。
主婦や水商売の人の昼勤めがメインだったその喫茶店のスタッフの中で、青年は皆から「きょうくん」と呼ばれる童貞坊主としてそれなりに可愛がられて……ようやく、都会の中で居場所らしきものを見つけていた。

そんな、ある日――
青年は、その喫茶店から出奔バックレた。連絡もせず、翌日から行かなくなった。
原因は、しごく単純で。
勤めてから1年半ほどだっただろうか。青年は、あとから入ってきたウェイトレス、年上の元風俗嬢のお姉さんから言い寄られていて……。
彼女いない歴=年齢の童貞青年にとっては、飛びつくようなチャンスのはず、だが――童貞で、アニメオタクらしく、二次元の少女に恋をするような愚かな男だった青年は、そのお姉さんからの「ヤッて当然やれて当然」な押しが苦手で、それが嫌になって……。
エロ漫画が如き状況はフィクションゆえに成立する。真正直な心を失っていなかった青年は、居場所を失うことになった。
青年は職場から、逃げ出した。

あの店が、危険な場所だというのは薄々、青年にもわかっていた。無断欠勤を続けたことで、あの店のマスターに叱責されるのが怖くて。青年は職場、そして棲家からも逃げ出した。
携帯も何も無い、当時。アパートの電話も壊されてそのままだった。出奔して、履歴書に書いたアパートの住所に戻らねば、自分を追跡することなど出来ない。
青年は、アパートの部屋にも戻らず……かといって、東京で頼れる知人友人もおらず。仕方なくホームレスの真似事でもしようかとも考えたが、良さそうな場所は先達の領土であった。空いている場所もあるにはあったが、いくらか無鉄砲な青年であっても、野宿は危なそうに思えたのでやめていた。
逃げ出した青年は毎日、毎晩……深夜0時の閉店までゲームセンターや本屋で時間を潰し、そのあとは。24時間営業の牛丼屋で、めしを食い、時間を潰し。明け方まで当て所なく街をさまよい、日中は安い喫茶店で睡眠をとり、夕方、そして夜……再びその身を雑踏の中に隠した。

そんな暮らしを一週間ほど続けた頃、青年は。
犯罪者は現場に戻る心理、でもないが――自分が抜けたあとのあの喫茶店がどうなっているか、どうしても気になってしまい。ある昼下がり。こっそりと店を見に行った。
――店は、閉められていた。店の前は、黄色いロープで封鎖されてた。
「……?? なぜ、急に」「客は入っていたし、売上も……?」
青年は不思議に思ったが。まあ。店が潰れたなら、いいか。と。
それどころかラッキー、店がないなら、もうバックレたことで自分を叱る相手もいないと気が楽になって。
青年はまた、アパートに戻っていつもの生活に……無職の男に戻っていた。

そして。屋根のある生活を再開して、数日。
喫茶店で働いていたときの貯金はまだあったが、そろそろ別の仕事を見つけるか、と。どこかのゲームセンターでアルバイトでもするか、などと青年は気楽に考え。
そして。その夜、いつも0時の閉店まで遊んでいたゲームセンターを出た青年は、アパートに帰る夜道を独り。違法駐輪の自転車が、両側にずらりと並ぶビルの谷間を、真っ暗なその道を独り……。
そして。青年は、いきなり背後から呼び止められた。
「きょうくん」 聞き慣れた、あの喫茶店での彼の呼び名で。

驚いた青年が振り返ると、そこにいたのは……若い男。あの店によく来ていた、マスターやポーカーゲームの担当とたまに話していた男。
彼に良くしてくれた主婦さんが「あれ、地回りシマのヤクザだから。あんまりかかわらんようにね」と言っていた、若いヤクザだった。
店にいるときは、べつだん、凄んだりもせずいつもにこやかで。店でめしを食い、酒を飲んでいた若いヤクザが。
――ゲームセンターから、青年は尾行ツケられていたのだろう。
その若いヤクザは、呼び止めた青年に。やはり、凄んだりもせず、ただ。

「あれ、きょうくんか」

ゾッとする、冷たい声で。それだけを、青年に言って。尋ねていた。
青年は、わけがわからなかったが……現状が、まずいこと。命に関わる危険なことは、察して。何もわからないまま、首を振っていた。
――正直、そこでの対応をなにかひとつでも間違えていたら。
青年は、そこで終わっていた、と思う。こうして、当時の思い出を書くこともないまま。物書きになれないまま、そこで……終わっていただろう。

ただ、首を振って。男の言った「あれ」が、なんのことかわからない青年に――その若いヤクザは、凄むでもなく、暴力をふるうでもなく、ただ。
静かに。だが、かつての親しみが消えた声、そして顔で。
「あの店な。警察まっぽ入ってガサイレしてな。マスターもうちのも捕まった」
と。青年に、あの喫茶店が閉まっていた理由、あの黄色いロープの理由を、簡潔に伝え、そして。
青年は、ようやく……問いかけの意味を理解した。

警察に密告したのはあれおまえきょうくんか」

あの喫茶店は……ランチ営業、そして夜は0時までバー営業をしている飲食だったが――
しばらく、勤めていてわかった。
店のそこかしこにおいてある、テーブルゲーム筐体。麻雀ゲームのその台は、1プレイ100円のよくあるゲーム機だったが、大きな手で上がると「ご祝儀」が店から出ていた。その御祝儀は、ランチの無料券だったり、封がされた封筒だったり。

そして――表から見えない、店の奥には別のテーブルゲーム筐体がずらり、並べられていた。
それらは、ポーカーゲームのゲーム機で。1プレイは麻雀と同じく100円で1クレジットだが、ポーカーゲームのその台は、1度に100クレジットまで賭けられる。そして……台に増設された特殊キーを回すことで、10クレジットづつ追加できる。そのときは店のスタッフに、5000円札を渡すと5回、キーを回してもらえる。10000円なら、10回。
常連のお客さん、負けが込んでいそうなお客相手なら「あっ、まちがえちゃった。マスターには内緒にしといてくださいね」と、数回、キーを余分に回してサービスする。
そして――そのポーカーゲームで、客があるていど勝つと。
店のマスターから、そのポーカーゲームを任されていたスタッフが。店のお姉さんからは「マスターのお兄さんらしいけど、かかわらんほうがええよ」と言われていた男性スタッフがでてきて、クレジットを精算する。
ポーカーゲーム機の賭博――それがこの喫茶店の本当の商売だった。だが青年には、そもそも賭博に違法や合法がある、という知識すら無く。
ランチを任されている主婦のスタッフが
「あたしらが朝から仕込みで頑張っても、1日に売上は2万もいかないわ」
「それが、あの台は10分で稼ぐから。いやんなっちゃう」
などと、笑って愚痴っているのを聞いて。「へえ」で済ますほど……青年は、無知だった。

無知だったが、無知なりに察した青年は、ようやく焦って。潔白を示すために、自分がバックレた理由を。
店のおねえさんのお誘いをお断りしたら、いじわるされるようになりまして、などと――
暗闇の中で、おどおど話す青年に。
やや同情したふうな、その若いヤクザは。
「きょうくん、しばらくはこのあたりに近づかないほうがいい」
……と。
ヤクザなりのアドバイスを青年にくれて……彼は夜の闇へと、消えた。

青年は、ヤクザの勧めに従ってすぐにアパートを引き払い、夜逃げ同然に引っ越した。


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