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あふれるためのコーヒー

朝コーヒーをドリップしていた。
自分で飲むために淹れるのでかなり適当。
お店の人みたいにチョロチョロとお湯を入れるわけじゃなくて
コーヒーフィルターに結構適当にドバーッとお湯を入れてしまう。
4回くらいに分けて入れて完成。
自家焙煎の豆を買っているおかげでこんなに適当に入れてるのに
ちゃんと美味しく淹れることができる。
けれど他人にはこの淹れ方では申し訳ないのでやったことはない。

カップはその日によって変わる。
だいたいこのくらいかなって量のお湯を
ドリップ用のシルバーのポットに入れる。
この日のカップは今週何回か使っているカップなので
結構お湯の量に関してはちょうどいい自信があった。
4回目のお湯をドリッパーに注いだ。
落ちるまでに時間があるので食器を洗ったり、他のことをする。
そろそろかなと思ってカップに目をやると
盛大にあふれていた。
カップの周りはコーヒーの海。

あら。

怒りも焦りも何もなく
ただ淡々と台フキンを使ってコーヒーを拭く。
多かったのか。
そのくらい。

コーヒーをなるべくたくさん飲みたいので
カップすれすれのコーヒーは
日本酒が下皿付きでお店で出てくるのを飲む気持ちと同じ。
たくさん入ってる、ありがたい。
口をつけて少し飲む。
完全に家仕様のお行儀の悪さ。
コーヒーを持って階段を降りるので1cmは飲まないと。
淹れたては熱いので気をつける。

たくさん淹れたいけどシルバーのポットの上から8mmくらいあけて
お湯を入れていたら、カップにはギリギリセーフかな。
そんな感じで思考が巡る。

コーヒーがあふれることから始まるデータ分析。
ちょっとしたオラクルみもある。

Strangerのカップがあふれている。
思いがけずあふれている。
ちょうどいいと思っていたのにあふれている。
そこに焦りはなく、むしろ淡々と受け止める自分を発見する。
モノゴト全てにおいて起こってしまったことに対しての
言及は不要だということがわかる。

子供が何かをこぼした時それが拭きづらい場所だったり
おもらしだったりすると怒りと疲れが湧いてくる。

自分の失敗であったり、慣れていることだったりすると
ああ、またか、でも大丈夫拭けばいいだけだと
落ち着いて対処できるし、前記したように

あら。

くらいで済むようになる。
全ての物事に

あら。

それを思い出すために
あふれるためのコーヒーがあるのかもしれない。








今日出会った、AI編集者さんのおかげで執筆することができました。
ありがとうございました。


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