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「好きな事を仕事に」するとかしないとか。


今回は、Instagram運用をする中で私が感じたことを話させてほしい。会社員として色々と経験し、インスタグラム運用(インスタグラマーとは絶対に言いたくない)もやって感じた仕事観。建築の話ではなくて、私の仕事への価値観の話。引いては、自己紹介の代わりにもなっているので、軽く読んでいただけたら嬉しい。
(タイトル画像と内容は、一切関係ありません!)

仕事論。

私は仕事ができない。

突然だが、私は仕事ができない。いわゆる「高学歴ポンコツ」である。国立大学を卒業後、新卒で大企業に入社したが、数週間そこで働いて、私は自覚した。私は「勉強はできるが仕事ができないヤツ」だったんだと。

1社目で担っていたのは、人事労務。採用、従業員の労務管理、退職の処理等・・・。など、かなり多岐に渡る業務を任せていただいた。学生の頃は海外を渡り歩き、社会人になっても海外と繋がる仕事をするんだと意気込んでいた学生時代だったが、そんなにうまくいくはずも無い。上には上がいることを思い知った。というか、私は社会を舐めていた。

まずそこで思い知るのは、「書類の抜け漏れが多い」こと。なんだかよくわからないが、誤字脱字、ミスが多い。本当に多い。ダブル、トリプルチェックが必要だった。さらに、記憶力が果てしなく悪い。一度教わったことをすぐに忘れる。今までどうやって勉強してきたんだと思えるほどに、記憶が飛ぶ。(英語はそこそこ話せるし勉強もできたので、根本的な記憶機能の欠陥ではないと思う。)

努力すれば夢は叶う的な根性論と、自分は高学歴でハイスペックだという、今考えればあり得ないプライドが邪魔をして、頑張っていれば物事は好転するんだと迷いもなく思っていた。愚かで哀れである。
妙に責任感があるせいで、失敗する罪悪感は募るばかり。もちろん上司からの接し方も微妙なものになり、私も新卒で素直だったので、それがあまりに辛すぎて、だんだんと話しかけられなくなった。

そういう日々を1年ほど過ごし(1年耐えた私の根性に屈服するが)、ある日、事件は起きた。涙がとまらない。自分のデスクで、涙が止まらなくなった。特に何かパワハラを受けたと言うことでもない。これは後でわかったことだが、仕事ができず、誰の役にも立てず、上司には呆れられたと言う事態を受け入れられず、自分自身を責め続けたことで起きた、精神障害だった。

「自分の好きな仕事をして生きる」とかなんとか。

元々私は、やる気と根性だけはあり、自己啓発本を愛読書にするような人間だった。仕事への向かい方、ハウツーの知識ばかりが脳に蓄積され、アウトプットが間に合わない。そうとは知らず知識ばかり入れて、現実の仕事はうまくいっていない。徐々に地に足がつかなくなっていった。さらに、そう言う本から作り上げる理想の自分と、現実の自分との乖離を受け入れられず、自分を責め続けていた。

精神障害のショックで休職することになるのだが、その時に出会うのが、「自分の好きな仕事をして生きる」と言う言葉である。当時、「好きなことでなら、仕事も上手くいくかも!」と言う超短絡的思考で、色々な仕事を経験した。色々、と言うことは、どれも続かなかったと言うことを意味するのだが、ここの詳細は長くなるので割愛する。
なんにせよ、「自分に合っている仕事」とはなんなのかを探しつづけていたが、一向に見つからなかった。

置かれた場所で咲きなさい?

「自分に合う仕事」「自分が楽しいと思う仕事」がどこかにある!と信じ続け、一方で、上手くいかない仕事を続けて、精神的に苦しんでいた。(途中、パワハラ上司に遭遇するなどの外的要因もあり、本当に苦しんでいた)
自分が得意なこととはなんだ、私にできることはなんだと、もがいていた。

その頃だろうか。「置かれた場所で咲きなさい」と言う著書が流行し、また私は迷子になる。今の辛い状況で咲くとは、一体どう言うことかと。「っていうか咲けないから苦しいんだ、このやろー!」と心底思っていた。八つ当たりである。
今思えば、私にとっての「咲く」と言う言葉が、その仕事で表彰されるとか有名になるとか、高すぎる理想を意味していたんだと思う。

ここでもない、あそこでもないを繰り返し、自分を責め傷つけ続けていた(自分の心を傷つけることほどに苦しいことなどない、と気づいたのはここ最近である)。

「好き」にもいろんな意味がある。

要するに、昨今の「好きに生きろ」とか「好きな事を仕事に」に執着しすぎた結果、自分自分も見えなくなっていた。しかも、私の「好きな仕事」という言葉の認識に、「自由」や「楽(らく)に」と言った意味合いも含まれており、なんつーご都合主義かましているんだろうか状態であった。「好きな仕事」ができたら、辛さや苦しさもなくなるはずだと、本気で思っていた。めでたいやつだ。本当に。

どうしてその考え方が間違いだと気づいたかのかと言えば、Instagram運用のお陰である。「コンテンツ」たるものが大好きなサブカル人間の私は、デザインをする事が大好きだった。写真を撮ってフォントを操り、一つの作品にする事。Instagram運用は私の「好き」が詰まっていた。だからこそInstagramを「運用」する事に出会えたのは、とても大きい事件だった。こんなに楽しいことがあるのかと、最初は楽しくてしょうがなかった。

が。お分かりかと思うが、Instagram運用にとって何より大切なのは「継続」である。「継続」。しかも、伸ばすためには「毎日1投稿」が大前提なのだ。(Instagram運用について知りたい人は、コメントください。)そこでようやく私は気づく。「好きで楽しかったのに、めっちゃ辛い!なにこれ!」と。
今こうして俯瞰して書いているから、まだ落ち着いていられるが、ただのアホだった。このクオリティで毎日継続して作品を作り続けることが、いずれ辛くなることくらい簡単に想像がつく。それでも、とりあえずはフォロワー1万人を達成したい、という願いを貫き、毎日投稿を続けた。ありがたいことに、半年で1万人の方に見ていただけるアカウントになり、いまに至る。

「好き」という言葉は、そんなに単純な言葉じゃない。それにようやく気づいた。ありがとう、Instagram。私にとって「好き」は、「なんかいつも気になることで、それに対して行動に起こすことが容易だが、時にかなりの苦しみを伴うものごとに対する形容詞」である。同時に「その苦しみを乗り越えた時に、達成感や充実感を得られる」という注釈がつく。

この経験で、私は少しレベルアップをした!(RPGみたいだ。)
こんなことをこの場で言っていいのかはわからないが、「好きな事を仕事に!」という言葉が氾濫している世の中に対して言いたい。「そんなに甘い仕事なんかない。目を覚ませ、と。」

総括。

ダラダラと話してきたが、つまり言いたいことはこうだ。
「好きな事をするのは大いに結構だが、目的意識を持って、そして覚悟を決めろ。腹を括れ。」という私の仕事に対する思いである。

私は、新卒の頃から一貫して「好きな事を仕事」にしたいと思っていた。そして、与えられた仕事が自分の意思にそぐわなかった時、それにきちんと向き合えていなかったのだと思う。1社目でミスが多かった時、きちんとそれに集中していたのか、改善しようと思考したのか。そう思い返せば、正直、気持ちよく返事をすることができない。

今、私は幸運なことに紆余曲折の末、「好きな仕事」が何かがなんとなくわかってきたが、昔の私に声を大にして言いたいのは、「好きとかなんとかどうでもいいから、目の前の仕事に向き合え。考えろ、行動しろ。」である。たらればを言っても仕方がないが、少しでもそこに気づけていたら、あんなに辛い思いはしなかったかもしれない。(わからないけど。)

枝葉にはなるが、「自分の努力ではどうにもならない辛さ」からは、即逃げるべきだというのも教訓としてある。なんとかハラ、とか、いくら働いても上がらない給料とか、そういうものはどうにもならないから、別の方法を考えるのがいいよ。本当に。

私がInstagramを始めたのは、もしかしたらネガティブな要因が多いのかもしれないが、なんにせよ、とにかくやってよかった、というのは間違いない。今までダラダラと書いている教訓も、これがなければ気づいていなかったかもしれない。そう思うと恐ろしい。本当にありがとうInstagram、そして多くのフォロワーさん。

「置かれた場所で咲きなさい。」とか、うまいキャッチコピーだ。私に言わせてもらえるならこうだ。
「置かれた場所で咲けるなら、そうしなさい。本気でやって無理なら逃げなさい。ただ、覚悟を持って逃げなさい。」

仕事に対する思いというのは、三者三様である。だから、これを読んでくれた方も、ふーん、そういうもんか、くらい思ってくれたら嬉しい。というかそもそも、ここまで読んでくれたことが、本当に嬉しい。ありがとう!

超自虐的仕事論、一旦ここで締めさせていただきます。
思考が更新したら、続きを書くかも。その時は、また読んでほしいな!

ではー!












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