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正解探しのジプシーから抜け出す

なにをしたら上手くいくのか、どれを買えば後悔しないのか、わたしたちはいつも迷っている。

どのSNSメディアが正解なのか、どのビジネス塾が効果があるのか、どのPCがコスパがいいのか、どの先生が結果を出させてくれるのか、etc.

たとえ選んでよかったなと思えるものに出会えても、またしばらくするともっといいものはないか、自分が見落としているものはないか、もっとコスパのよいものはないか、なるべく損せず得する方法はないか探し始める。

これをしているかぎり、つねに隣の芝生は青く見え続け、100%満足するものには出会えないから、そのうち選択することが怖くなり、霧の中で立ち尽くす迷子状態になってしまう。

ずっと私もそういうときが長かった。この思考のもとにあるのは、損したくないという思考。

この状態になっているときは、自分だけ上手くいく方法から遠ざけられているような、ベールで隠されているような、そんな気分になる。だから正解を知っていそうな人を見つけると、熱心に話を聞くし、試してみたりもする。

そしてその人やもののブランドや評判や性能などを調べたりして、コスパのよいものを選ぶわけなのだけれど、結局また「で、その後どうしたらいいの?」とか「これでよかったの?」とかにぶち当たる。

ああ、また違ってた。これでもなかった。正解はどこにあるんだと少なくなった資金に不安を覚えつつまた探求の旅に出る。

そしてやっかいなのは、選択肢にはあったのに選ばなかったものや、見切りをつけてやめたもの、あるいは知りえなかったものを選んで上手くいっている人を見ると、自分の選ぶ目のなさや、我慢強さの欠如や、無知さが嫌になって、もっと確かな情報を得てもっと精度よく選択できる目を養おうとする。

じゃあ、なにを知っていれば正しいものを選ぶことができたのか?なにを理解していれば見切りをつけなかったのか?どんな情報にふれていれば今の自分が知らない情報を知りえたのか?

そのなにやどんなに出会わなかった。出会わなかったからわからなかったし知らなかった。

知らなければ選びようがない。自分の知っているものだけが世界ではないと知らなければ、知らないものについて調べることもしないのは当然だ。

努力が足りないわけでも、アンテナがポンコツなわけでもない。

自分なりに選び、それを一生懸命やってきたのだ。

それが必要で重要だったから。他は必要ではなかったのだ。少なくともその時は。

存在を知っていたのに選ばなかったことを悔いて、そういう自分を責めるかもしれない。でもピンと来なかったのだとしたら、選ぼう!これだ!と思わなかったのなら、それはそっちが用意された道だったからだ。

分析にたけて、知的で、ものごとを理路整然と考える人だから、その知性から見ると正解に見える選択肢が隠されていたのかもしれない。

だって、一番確かなガイドは直感だから。でも賢い人は直感を無視して知性が示す正解をつい選んでしまう。だから私たちを愛してやまない宇宙は、知性が及ばないように行かなくてよいものは隠してしまうのだとしたら?

本当に悔いるべきは、直感もからだの感覚も全てがゴーと言っているのにそれを無視した場合。

ただそれですら、そういう設定だったのかもしれない。一度、直感を無視してみないと、賢い人はその現象から学ぶことができない。

正解を探しても探しても見つからないで、いつも答えを知っている人を求め、ずっと霧の中を手探りで進んでいるようで、もういい加減にしてくれ!と思っているなら、それは正解を選ぶ=うまくいく、という方程式をぶっ壊すときです。

ずっと正解を生きてきているのです。正解ではない、と判定しているのは自分です。起きていないことを自分で起こすことができなかったと自分を責めるのは検討ちがい。

起きていないことは必要のなかったこと。起きなくてよかったこと。

そして今まわりにあるものはすべて、設定どおりに用意されたもの。

もし受け入れられないなら「受け入れられるものをください」と願うのではなく「受け入れられるように私をしてください」と願えばいい。

宇宙、神、大いなる存在を信じます、というのなら、オーダーが通らないとなぜ嘆くのでしょう。信じなければ実現しないと言う人もいます。だったら「私が信じられるようにしてください」とオーダーするのです。

起こることは起こるように設定されているから、受け取るだけなのです。そして心がそれを受け取ろうが受け取るまいが、起こるものは起こっていくのです。それ以外に正解はないのです。

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