「対話型鑑賞」が面白かった話!後編
引き続き、対話型鑑賞について書いていきます!
実際の対話型鑑賞の様子については前編に書いたので、よろしければこちらから見てみてください。↓↓
この後編では、対話型鑑賞を通して私が腑に落ちた3つの学びについてアウトプットしたいと思います。
では早速ひとつめ!!
学び1:「事実」と「解釈」を分けること
アートを見た時、私たちは何気なく「この作品、綺麗だね」と言ったりしますが、伊達先生からするとこの表現はちょっと違うそうです。
どういうことかというと…
×誤
「アート作品」が、綺麗/綺麗じゃないという「性質」を持っている。【=事実】
◎正
アートを見た「私」が、その作品を綺麗/綺麗じゃないと感じる「感性」をもっている。【=解釈】
なのだそう。
前編の記事にもあるように、講義の中で、同じ絵を見ても人によって感じ方が全く異なる、という体験をした私には、ストンと理解ができました。確かにそうだ。
アートの美しさにはそもそも「正解」も「不正解」もないので、「絶対的に綺麗なアート」というものはこの世に存在しません。
さて、前編で少し触れた通り、この講義の目的は、
アート「について」学ぶ ことではなく
アート「を通して」学ぶ こと。
現実社会に目を向けてみると、私たちが日々向き合っている問題や課題、悩みにも、この「正解がない」という要素が多分に含まれていることに気がつきます。
こういった事柄に対して
「これこそが正しい生き方/考え方だ」
「君の意見は間違っている」
といった主張をする人もいますが、たいていの場合、これは【正解】でも【事実】でもなくあくまで【解釈】にあたります。
アートと同じで、人間の在り方にも唯一無二の正解はないからです。
極端な話、誰かに「あなたの容姿は醜い!」と言われたとしても、これも【解釈】です。その人がそういう価値観を持っていただけ。
この考え方に出会う前、私は、あくまでその人の【解釈】に過ぎない話なのに、【事実】だと勝手に受け取って落ち込んでしまう事がよくありました。
あの人は私を○○って言った、私は○○なんだ。
あの人に考えを否定された、私は間違っているんだ。
みたいな感じです。
でも【事実】と【解釈】を分けて考えると、自分を否定される事を恐れる感情がかなり軽くなりました。
「あなたはそういう解釈をするのね!了解!」でいいのです。
こんな風に、ついつい混ぜこぜにしてしまいがちなこの概念。
逆に自分が相手へ物事を正しく伝達したい時は、
を明確に分けて伝えることで、より齟齬を少なく意思疎通ができるようになるはずです。
学び2:「同意」はできなくても「合意」はできる
話は少し変わって…
みなさんは「同意」と「合意」の違い、考えたことありますか?
私はなかったです。
簡単に言うと、
だと私は理解しました。
微妙な違いですが、
合意形成 とか 合意に至る
という表現はするけど、
同意形成 とか 同意に至る
という表現はしないですよね。
つまり、違いはそこにあるプロセスです。
ある目標のためにA案を推す人とB案を推す人がいた時、両者は互いに「同意」することはできませんよね。
でも、コミュニケーションを重ね、なぜその考えに至ったのかを理解するというプロセスを経て、そこに「合意」することは可能です。
結果として片方の案のみが採用されたとしても、そしてそれが仮に失敗に終わるとしても、その考えに至った経緯をきちんと相互理解できれば、一旦は両者納得ができて、ひとつの目標に向かう事ができる。という事です。
これは当たり前のように聞こえるかもしれませんが、私が以前やりがちだったのは、互いに同意できないと分かった時点で、変に自分の意見を曲げて相手に同調する、あるいは「意見が合わないね、サヨナラ」と相手と距離を置いてしてしまうこと。
もちろんケースバイケースではありますが、そういう時の新たにな選択肢に「同意はできなくても合意を目指す」が加わったことは大きな収穫でした。(祝)
そしてここにも、先ほどの【事実】と【解釈】を分ける意識が役に立ちそうです。
合意形成を目指す上では、事実をベースに、解釈には理由を添えて伝達するとうまくいくのかもしれません。
うまくコミュニケーションを重ねれば、新たなC案が生まれる可能性もありますよね。
きっと本来はこういう細かなスキルの集合を「コミュ力」というのでしょうね。奥が深い。
学び3:「体験」と「経験」は何が違う?
これも私は考えたことがなかった…!
なんですね。
体験はその瞬間が終われば消えてしまうけど、
経験はその先にも価値が残ります。
そういえば、【経験が豊富な人】になりたいとはよく言うけど、【体験が豊富な人】はなんかちょっと違いますね。
では、個々の「体験」を「経験」に変換するには何が必要でしょうか?
それはずばり、
「言語化」なんだそうです。
例えば…
といったイメージです。
こう考えると、体験を体験のまま放置しておくのはもったいない気がしてきます。その都度言語化して、経験に変えてこそ、人生の糧になるのだと思います。
こうやってnoteに学びを残すのも、まさに言語化によって体験を経験に変えようとしている行為だと思います。
頭の中でも言語化はできるけど、文字に起こすと洗練されるし、人に見せること前提に書くとさらに洗練されます。
言語化はものすごく脳みそを使うしものすごく疲れるけど、それ以上に楽しくてやめられないのは、経験値UP!の快感なのかもしれません。
そうやってどうにかこうにか生んだこの記事が、また誰かの「体験」になって、巡っていけば嬉しいです。
この記事で伝えたいことは以上です。最後まで読んでくれてありがとうございました!^^
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