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CREDO QUIA ABSURDUM  1,Fiat lux ⑩

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「一つ、訊きたいことがあります」メリーの問いが空気を裂いた。「貴方自身は本当に知性を奪うことが救いになると、そう信じているのですか?」

 教主──シモン・スルニチェクはいつも彼がするように説明しようとして、止めた。問いかける少女の瞳には、否定も怒りも感じない。ただ純粋さ──いや、真摯という言葉が近いだろうか──だけがあった。善も悪も関係なく、ただ男の信心が本心からのものであるのかだけを問うていた。
──それに応えよう。

 スルニチェクは教主としての仮面を捨て、一段低い声で問い返した。

「不思議ですか? 私が絶望に沈んでいないことが」

 その地を這うような声色に、ゾフィアはまるで目の前の男が別人になったかのような錯覚を覚えた。

「知性の放棄こそが救いであるなど、絶望に突き落とされた人間でなければ言い出したりしません。あるいは、退屈を弄ぶにわか哲学者か、ね」

 苦笑混じりのその言葉尻に、メリーが反応する。

「貴方は後者ではないと?」

「ええ。だってむしろ、私はこんなもの、まさしく思考停止であると唾棄しているのですから」

 穏やかに紡がれる罵りに空気が冷え込む。口を開いたのは、男の言葉に少しづつ眉を顰めていくメリーではなくゾフィアだった。

「じゃあ、さっきの言葉は……貴方は、お母さんたちを騙して……」

 凍えるようなか細い声で訊いた。魔術師はそれを諭すように制止するが、つづく言葉は優しい口調に似合わぬものだった。

「まあお聞きなさい、ゾフィアさん。──貴女は不平等だとは思いませんか? 遍く人間へ平等に知性が備わっていることが」

「は……?」

 少女たちの息が詰まる。

「アダムの子孫であれば、悪人であっても、無精者であっても、自死を願う人間ですらも、程度の差こそあれ思考し感受する力があります。……浪費されていくなど、あまりに愚かではありませんか」

 この時、メリーとゾフィアは理解した。魔術師がなぜ、一貫して「知性の受け渡し」と言っていたのかを。
 そして見た、魔術師の背後が歪んでいくのを。
 魔術師の陰から、光の筋が伸びていた。燭台の光芒ではない。有機的なうねりを持った光が、幾重にも立ち上っていた。空間を侵食する様子には膠灰セメントを割って伸びる根の姿が重なったが、縦横へ張るに従ってしかし、むしろ大樹の幹と枝葉に似るようになった。
 細枝の先から雫が垂れるように、大ぶりなが姿を現す。柘榴の中身のような、赤く汁気に満ちたたわわな果実が無数に枝先で揺れていた。いや、この室内に風などない。果実の一つ一つが微かに蠕動していた。その内汁を搾り出すかのような動きが光の枝を揺らしていたのだ。

──あの実は生きている。

 ゾフィアはそう直感し、猛烈な生理的嫌悪に腹の奥を鳴らした。

「ゾフィアさん、やはり貴女は勘の良い子だ。これらはすべて信者の皆さんに献上していただいた知性・・です。“昇天の諸原理サブリマティオヌス・プリンキピア”──私が生涯を懸けて生み出した魔術。人間の思考活動を形而上学的に捉え、抽出し、純化して操る私だけの技。現在、二百十四人分の演算機が私に直結しています。歴史上多くの大賢者が産まれては消えていきましたが、今の私はその全員を上回る頭脳を得たと自負している。……そして、この力は今後さらに増大していくのです」

「信者さんたちを騙してまで頭でっかちになって、何が目的なんですか?」

 メリーの声が、初めて敵意を剥き出した。

「騙す? 私は誰よりも救いについて考えて・・・いますよ」

 スルニチェクは心外だとでも言うように答えた。彼にとっては珍しい、感情の篭った声だった。
 一歩踏み出すと、から伸びた触手がずるずると男の背後で音を立てた。

「疑問があったのです……昔からの疑問が。なぜ、主はこの世界に不幸や悲しみを産んだのか。生命は他の生命に劣り、脅かされ、殺される。光から逃げ、物陰に潜み震えるだけの者がいるのです。神は全能であるにも関わらず、『光あれ』と唱えたその時、総ての者を祝福で照らさなかった。……なぜ闇まで創ってしまったのでしょうか」

 口調には慈悲の色があったが、発する言葉は知恵のつき始めた子供のようであった。だが嘯くだろう──天才とは常に、子供のような壮大な発想を実現する者であると。
 そして、天を指して宣言する。魔術師の顔は、教主の顔に戻っていた。

「私はこの力をもって全知を実現する。真理の元に達したその時、きっと今よりも素晴らしい世界を私は創れる。天地創造をその一日目からやり直し、暗がりのない世界を!」

 それこそ、男の目指したエデン=アタラクシアの真の姿。救世主であり創造主となるシモン・スルニチェクを待望する信仰。
 だが、対する者たちには響かない。

「ご高説ありがとうございます。でも、改心するなら普通に警察へ突き出してあげますよ?」

「改心だなんてそんな。私が正しく、そして私こそが崇められる側なのですから。ああそれと──」後光を背負い、教主は慈悲に似た嘲りを浮かべながら少女へ告げた。「騙していない、というのは本当のことでもあるのです。思考能力を捨てることに躊躇う方は多い。そうした時、私は本心をお話しするのですよ。貴方の知性で私は総てを救う、と。すると彼らは泣きながら喜ぶのです。この知性が、この命が無駄にならずに済む、自分も救いの一助となるのだ、と。ゾフィアさんのお母様もそうでしたね。彼女も、私の真の同志でした」

「────っ!」

 心臓を締めつけられたようなゾフィアの声。彼女の親友は、もう耐えられなかった。

「いい加減にしてください」

 メリーが鉄鎚を構え直す。瞬間──風が唸った。
 その音速より先に、不意の衝撃波がメリーを襲った。
 先手を打ったのは魔術師だった。
 石の床が爆ぜる。
 間髪入れずもう一撃。二撃。三撃。そこから先は加速した。数えきれないほどの攻性魔術が教会堂を揺らす。大砲の如き重撃を機関銃顔負けに斉射した。大気の絶叫がこだまする。
 人間の身体など、その肉の一片すら残らぬ蹂躙。
……だが、立ちこめる土煙の奥から、少女の咳きこむ声が聞こえた。

「なるほど、魔術師狩りと言われるのも納得できる」

 メリーが鉄鎚を振るうと突風が土煙を払った。
 鉄鎚──骸骨の意匠に埋め尽くされた巨大なそれを、魔術師は改めて眺める。

「やはり、魔術がすべて打ち消されている。……その鉄鎚、聖遺物ですね。物理的な攻撃でなければ、それに阻まれるということですか」

「ユーリを『それten』呼ばわりしないで。でもご名答。どうします? そこにある長椅子でも投げます?」メリーは左手でぴょいぴょいと物を投げる動作を真似ながら言った。「それでも、全部打ち返せますけどね」

「ふむ……それは厄介だ。あまりに球が足りない」さして思ってもなさそうにスルニチェクは応じた。「なら、創りましょうか」

 空間が三度みたび歪んだ。しかし今度は空気のねじれではない。空中の塵が集まるとそれは小さな若木に姿を変え、そして、いつかの再現のように急成長する。瞬く間に、五を超える巨木が視界を埋め尽くしていた。

「これは魔術による仮体の物質ではありません。正に今私が創造し、この世に産まれ落ちたモノ──」

「! 生命の創造──カバラーと錬金術の合わせ技か!」

 その弥縫な生命たちが、魔術師が指先を動かすと同時にメリーへ襲来する!

「ゾフィ! お母さんを連れてその窓から外へ!」

 叫ぶと、まず一つを打ち落とした。日光も雨も知らずに育った木肌は種名もわからぬ程につるりと灰白い。その葉も無い枝葉は粉々に飛び散り、虚な幹は斧を入れたように裂けた。
 間髪入れずに次を弾き、次を避け、次を落とす。メリーは自分の何百倍ともあろう質量を難なく躱していく。

「流石と言うべきでしょうか、シスター!」

 積み重なる木々の死体を渡り駆けるメリーをスルニチェクは睨めつける。同時、後方の“樹”も主人の思考を読み取った。
 枝に揺れる脳の内、二十三が覚醒した。身体を維持するための生命活動や本能を取り払った彼らは、もはや思考の専用機。今は眼前の仇敵を討つためだけに全力を尽くす。

 彼らは大気に目をつけると生命樹セフィロトのパスを遡った。中空に漂う原子アトムの中に広大な世界を重ね、そこに神の似姿を垣間見る。すると、大気の中に四大元素が開花した。さも無から有が生まれるかのように、大気が森羅万象へ転変していく。
 小聖堂の低い天井を埋め尽くさんとばかりに水球と岩石が出現した。少女の身体を飲み込むためだけの災害が襲来する!

「信者のみなさんを騙した割に、モノ創って投げるだけなんて──」

 だが、賢者さながらの絶技でさえ、降下教会の修道女を止めるには力不足だった。

「芸が無いですね!」

 メリーが鉄鎚を一振りすれば、十のつぶてが砕けた。強引に道を切り開き、破片が当たるのなどお構いなしに突撃する。

「ならば、天地の創造を見せてあげましょう」

 魔術師が初めて構えをとった。天地を分けるように、両の手を開く。

「主は三日目までに海を創り、空を創り、大地を創り、そこへ木々の繁栄をもたらした。その翌日、世界にもたらされた栄光は何か⁉︎」

 其の手から火球が飛んだ。
 火の玉ごときに物怖じする降下教会ではない。しかし衝突の寸前、メリーは迎撃の体勢を変え身を翻した。

 気がつく。四日目に生まれた栄光──それは星である。

 聖堂内に光が溢れた。
 母を連れて窓から脱出したゾフィアでさえ、目が潰れるかと思うほど眩い光が聖堂のあらゆる窓を突き刺していた。

「メリー!」

 思わず叫んで顧みる。
 天を模していたはずの聖堂は、すでに地獄に変わっていた。
 魔術師の創った木々は赤く燃え、巨岩と内壁は黒く溶けている。
 灼熱に歪む空気の奥、七重の魔術防壁に守られたスルニチェクが、目の前の惨状を眺めていた。

「ハ、ハ、ハ──」

 スルニチェクの顔が、ゾフィアの見たこともない形にひしゃげた。きっと、自身にとっても初めて浮かべる表情だっただろう。常に柔和で冷静を崩すことはせず、高揚はあっても理性を失う逸脱はなかった。何故なら、彼にとって知とは絶対であり、人と獣を別つと同じように、自分という天才と他人を区別するものなのだから。

 しかし、これほど愉快な状況になれば無理もない。

「たった二百人程度・・・・・でこれほどか‼︎」

 そう、まだ知性の収穫は始まったばかり。世界にはまだ二十億人という大規模農園が広がっている。これから力が増すほどに信者は集めやすく、そして外敵は排除しやすくなる。宗教法人の裏で這い回り、軽薄なマフィアどもと手を組む必要もない。君主として力で世界に立つ計画の第三段階へ踏み込むのも目の前だ。

「まあしかし……、畑を食い荒らす害虫とはしつこいものですね」

 聖堂の円柱が不意に砕け散った。破片が礫となってスルニチェクに降り注ぐ。

 迎撃と出すまでもなく、堅牢な魔術障壁がそれを弾いた。

「加減したつもりではありましたが、まさか耐えるとは……!」

 円柱の奥から影が飛び出る。──メリーだ。

「火に対しては聖女様の加護がありましてね!」

 鉄鎚を振りかぶるが、壁につっかえた──否、彼女の膂力に対しては障害になり得ない。
 内壁は豪快な音を立てながら抉れた。
 振り抜くに合わせ、礫が散弾銃のように射出される。

「見上げた馬鹿力とタフネスだ──」

 愚直な力任せなど、スルニチェクが最も見下す振る舞いだった。魔術障壁に当たっては落ちる石ころを冷ややかに眺めながら、しかし気がついた。

「加護……その聖遺物に宿る力か!」

 そう、メリーが「ユーリ」と女性の名で呼ぶこの鉄鎚こそ神秘の塊。メリーへあらゆる加護・・を与える、一級を超えた真の聖遺物。
 だが、気づくべきことはもう一つあった。
 スルニチェク自身の本質が研究者であり、戦いの経験に乏しかったことである。

「な──!」

 気づけばあと数歩の間合いにメリーの姿があった。
 礫の弾幕の後ろに隠れ接敵したのだ。
 尋常でない跳躍力の成せる技だが、ここまでの攻防で予測できないものではなかった。

「くっ……!」

 あの鉄鎚の一撃であれば、魔術障壁は信用できない。
 思わずスルニチェクは二歩退いた。
 その後退が、彼の中に慣れない敵愾心を点火した。

「不出来な神の加護は次も耐えられるか⁉︎」

 光の枝がざわついた。実を総動員し、天上の炎を設計する。
 スルニチェクの頭上に今一度恒星が輝いた。先ほどの十倍はあろう巨星である。試作と違い加減などはしない。この一帯を焼き払っても七重の魔術障壁なら耐えられる。計算に狂いは無かった。

 一点、相手の力量を見誤ったこと以外は。

 日輪の中心を、銀色の彗星が穿った。
 霧散した光の奥、聖堂の低いアーチに鉄鎚が突き刺さっていた。

「投げ──」

 目で追った時にはすでに、それを引き抜くメリーの姿があった。
 迷いなく天井を蹴り、隕石となって魔術師の眼前に墜落した。
 城壁に比するはずの七重の障壁が一瞬に爆ぜる。
 そして地面を抉りなが鉄鎚を構え直す姿を見ても、魔術師は動けなかった。逃げる足は動かず、術を操る手も動かない。ただ頭脳だけが必死だった。

 考えろ、考えろ、考えろ──。

 鉄鎚を受け止めるだけの質量を創る猶予は無い。しかし、手立てを打たねば死が衝突する。木々に実った脳たちが悲鳴を上げる。もう手遅れだと悲鳴を上げる。その悲鳴が、幹を通ってスルニチェクの頭蓋で反響した。

「不合理だ」

 出てきた答えは魔術でも釈明でもなく、呪いを込めた譫言だった。
 知性を刈り取る魔術を作るために十年を費やした。教団を運営し、病人たちの身勝手な戯言に耐え、無邪気な信心を寄せる愚者たちにうんざりしながらも経営を安定させた。数人の知性が手に入れば、処理能力は格段に上がる。とはいえ身体は一つ。労働力として、虚ろになった信者を傀儡にする術も試作を重ねた。
 血の滲む研鑽と、地道な努力が身を結ぼうというその時、たった一人の少女に運命を狂わされるなど……。

「私はこんなにも人を救おうとしているのに──」

 そうだ、私は救世主だ。

「そうだ! 私には覚悟がある──すべてを犠牲にしてでも、人を救おうという覚悟が‼︎」

 スルニチェクの叫びに樹は呼応した。溶け出さんとばかりに脳たちは白熱し、溢れ出る思考が教主の元へ集った。

「人を──ゾフィを犠牲にしておいて、救世主なんて名乗るな‼︎」

 メリーの鉄鎚が、叡智の結晶を打ち砕いた。


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