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CREDO QUIA ABSURDUM  2,プロテウス ②

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ベネディクト・フロレクの手記

 下水道関係にその手の話・・・・・はつきものだ。誰も居ないのに水路の向こうから呼ばれるだの、それについていくと持っていかれる・・・・・・・だの……。百年前の戦争でナチスから逃れたユダヤ人やポーランド人ゲリラが未だに潜んでいるなんていう、ちょっと方向性の違う与太話もあったが。
 それは、いくらか教訓を交えて先輩から伝えられたもかもしれない。しかし、中には本当の話も混じっている。俺だって、怪しいものを見たのは一度や二度じゃない。それに今更、こんな世界で幽霊の存在を疑うやつもいないだろう。
 だが、俺たちに起こった出来事は、そんな単なる幽霊話で済まされるようなものではない。同僚たちが惨たらしく殺され、俺はこの文書を義務感のようなものに突き動かされて書き始めた。この文書こそ、俺の言葉を信じる材料として受け取ってもらいたい。

 四月十日の朝、俺たちの班はいつものように水道の点検へ向かった。だが、同僚達は気が乗らないようだった。というのも、その日の巡回は曰くつきの場所だったからだ。

 第七東港湾区二〇四。

 つい三ヶ月前、デカい水難事故に巻き込まれた区画だった。大都市ヴィネダ肝入りの、港湾拡張事業の一環とか言うアレだ。エルラフ・グループ(※ルギニア国内に本社を置く建設会社)がチャルノ川に大型ドックをバンバン造っていたら、地図に未記載だった古い下水道に穴開けて海水が逆流したんだ。
 俺たちは復旧に大慌てなのに、受注業者は「地図を正確に描いていなかったウチに責任がある」とか言って来やがって──。
 まあ、その話はいい。
 とにかく、補修工事も終わって、立ち入り禁止も解除されたから、久しぶりの点検というわけだ。だが、あの事故で三人分の死体が出た・・・・・・・・・だろ? ただでさえ陰気な仕事が、さらに薄気味悪くなったわけだ。
 第七東港湾区の地下水路は、上に建つ街と同じように年代物だ。中世に造られた運搬路──話によっちゃ古代ローマの時代からあるとも言われている──を十九世紀のスタニスラフ二世の時代まで継ぎ足し継ぎ足し増築してきた古い石造りが、蟻の巣のようにぐちゃぐちゃにつなぎ合わさっている。

「ここは何百年も前からある地下水路だぜ? 戦争や疫病は何度も経験しているんだ。今さら幽霊が三人増えたところで、大したことじゃないだろ」

 地下水路の入り口でコズロフスキ──同僚の一人の肩を叩くと、ヤツは咎めるような目つきで俺を睨んだ。

「確かにそうですね」と班の中で一番若いフィリピアクは笑った。「それに、人死にのあった場所にいちいち幽霊が出て来てたら、この世は全部心霊スポットですよ」

 ヤツは、どこかで聞いた受け売り文句を魔除けの呪文のように唱えた。
 俺は臆病な三人を置いて、地下へ降りる階段の先陣を切った。
 水路の中は事故だの人死にだの関係なく、ほかのどの場所、どの時代と同じように暗く陰気だった。
 俺は口ぶりとは裏腹、そこに溜まる闇を急いで払い除けるように壁のスイッチに触れた。水路の天井に等間隔で並んでいた電灯が、オレンジ色の光を満たしていく。頼りなさげな光ではあったが、少なくとも視界の範囲からは漆黒が消え、それを待っていたかのように同僚たちも俺の後ろについた。
 最初に足を踏み入れるこの水路を「メインストリート」とでも言っておこう。そこは、自動車一台が通っても余裕がある程度に広く、水路の両横には「歩道」が整備されている。水路も深さはあるものの、現在の水位は低く、おそらく足をつけてもせいぜいが膝ぐらいだっただろう。
 俺たちは、腐臭が立ち上る水路に沿って歩道を歩き始めた。
 点検のためにアーチ状の壁を見回していると、嫌でも壁の水跡が目についた。アーチのてっぺん付近、灯りにギリギリ触れない程度の場所にまでくっきりと染み付いたそれは、黒緑色にぬらぬらと光を反射していた。言うまでもなく、事故で濁流が流れ込んだ時の跡だった。事故からはそれなりに時間が経っているにもかかわらず未だ乾いていないそれは、放置されて溶けた死体が床に人形ひとがたをつけるのを連想させた。
 俺たちは、黙々と仕事をつづけた。とっとと終わらせて、この陰気な空間に別れを告げたいと、その場に居る全員が思っていただろう。思えば、その時からすでに予感のようなものがあったのかもしれない。

「フロレク、コズロフスキ、ちょっと来てくれ!」

 「メインストリート」から枝分かれする狭い水路で作業をしていたゴルスキが叫んだ。俺たちは電灯の無い小径に少し躊躇しながら、ヘッドライトの光に先導されながら進んだ。

「見ろよ、ここ。事故の前にはこんな物無かったよな?」

 ゴルスキの持っていたランタンの光が、トンネルの床から天井までを舐めた。だが、そこに有るはずの石壁は存在しなかった。ポッカリと大きな横穴が開いていて、深い暗闇が覗いていた。

「事故の時に壁が崩れたのか……?」

 だとしても、トンネルの壁の向こうにあるのは土だけのはずだ。俺は壁の向こうに顔だけ入れて周囲を見回してみた。古い倉庫に入った時のような、ツンとしたカビの匂いが鼻を突いた。小さくえずきながらも目を凝らすと、どうやらそこそこ広い空間が在るらしい。こちら側の水路から、チョロチョロと部屋の中へ水が流れ込んでいた。

「地図にも載っていない……」フィリピアクが手元を確認しながら言った。

「もしかして、閉鎖した古い水路の名残なのでは?」

 さっき「蟻の巣のように」と説明したが、現代も実際に使われるのは地上に近い一部だけだ。今はもう使われていない大部分はおおやけの管理を離れ、緊急時に退水路として機能するぐらい。記録が無いほど古いものだから、どれほど地下深くまで伸びているのかも分からないし、増築を繰り返したせいで、どこにも繋がっていない孤立した水路すらあるらしい。
 そうした水路などをうっかり掘り当てて、壁の脆いところから崩れたのがあの水難事故の原因だろう、というのが水道局とエルラフ・グループの見立てだった。
 目の前にある物も、そうした内の一つなのではないか。こんな浅い場所にあるのは不思議ではあったが、ここらへんは一八世紀に造った場所だ。古い時代の工事や設計だから、粗雑な部分や当時の事情があってもおかしくない。
 目が慣れてくると、向こう側三方にうっすらと壁が見えた。水路ではなく、何らかの部屋らしい。工事中の資材置き場か、あるいは管理者などが在中していた部屋か。不要になったそれらを塞いだのかもしれない、とその時は思った。

「フィリピアク、地図に場所メモっとけ。報告しなくちゃいけねえ」俺とゴルスキは後輩へ指示を出した。

「先日の事故のせいでここも崩れたんじゃないですかね?」フィリピアクの言葉に、俺とゴルスキは少し考え込んだ。

 そうしているあいだに、いつの間にかコズロフスキが部屋へ踏み入れていた。

「クソっ、エルラフの野郎どもめ……。テメェらの不注意で、こっちはまた仕事が増えるんだよ」コズロフスキは虚勢を張るように小部屋の床を踏み鳴らしている。

「おい。こっちの水路より古いかもしれないんだ。崩れるかもしれないぞ」
ゴルスキが抑えた早口で言った。まるで、恐ろしい何かから隠れるような声だった。

「分かってる。ただなんか変な音が──うおっ!?」

 コズロフスキの影が、突然小さくなった。

「馬鹿、言わんこっちゃねえ」

 俺が駆け寄ると、コズロフスキは尻もちをついて前方を指さしていた。

「あ、危ねえ……。お前もそれ以上前に出るなよ……」

 その指先からランタンの光で辿ると、今度は地面に大穴が開いているのが見えた。直径三メートルほどの穴が地下へ向かって伸びている。見た限り真っ直ぐ垂直に掘られたそれは、巨大な井戸のようだった。

「オイオイ……またレポートが増えるよ」と、ゴルスキとフィリピアクも寄ってきて、穴の中へ光を向けていた。

「随分と深いな。もしや……コイツのせいで部屋ごと塞ぐ羽目になったのか?」

「発炎筒、有りますよ。落としてみますか?」

 発炎筒の赤い光が、蛇の鳴き声にも似た音を立てて落ちていく。一瞬照らし出された穴の内壁を見るに、どうやら崩落してできたようなものではなく、人間が意図的に掘り開けたようなものだった。
 しかし、じっくりと見て考察するような時間はなかった。発炎筒は底に着くことなく、真っ暗な闇の中へ消えていったんだ。
 四人の間に、なんとも言えない嫌な沈黙が流れた。目の前にあるこの得体の知れない空間が、まるで地獄の底や宇宙の彼方へ続いているような……。不用意に声を出せば吸い込まれてしまうような、そんな気さえした。

「……帰るぞ。これを、すぐに報告しなくちゃならねえ」

 沈黙を破ったのは俺だった。

「あ、ああ。すまん、余計なもん見つけちまった」

 コズロフスキとフィリピアクも踵を返す。
 一人だけ、ゴルスキが神妙な顔で穴の中を見つめていた。

「おい、どうした?」俺は訊いた。

「……いや。さっき発炎筒を落とした時、お前ら……この中に人の顔が見えなかったか? 男の……爺さんの顔が」

 俺は総毛立って、言い返すことすらできなかった。

めろよ! そういうのは」

 俺の代わりにフィリピアクが応えた、その時だった。
 すべてが一瞬の内に起きて、そして終わった。穴の底から、轟々と濁流が登ってくるような音が聞こえた。俺たちはギョッとして身を固くした。しかし、目の当たりにしたのはそれ以上の悪夢だった。
 穴の底から出てきたのは濁流ではなく、巨大な手だった。人の身の丈はあろう掌。吐き気を覚えるほどに生白いそれは、人間のようにも、イモリや蛙のそれのようにも見えた。三人分のランタンが放っていたスポットライトの中に躍り出たそれはゴルスキの身体を無造作に掴むと、そのまま穴の中へ消えていった。
 しばらく、逃げることも口を開くこともできなかった。ただ、粘る汗が皮膚を包み、代わりに口の中が焼けただれたように激しく乾いた。

「落ちた」突然、呆然とした顔でコズロフスキが叫んだ。「ゴルスキが落ちた! ……今、助けるからな!」

 穴の淵に足をかけるコズロフスキを見て、俺は正気に帰った。

「落ちたんじゃない。落ちたんじゃ……」

 フィリピアクは何かを呟いていた。
 コズロフスキの叫び声はすでに地下の底へ遠ざかっていた。

「逃げるぞ!」

 俺たち二人──そうだ、もう二人しか残っていないんだ──は部屋を転がり出ると、真っ暗な小径を引き返し、入り口へ向かおうとした。
 だが、それはできなかった。照明の灯りが漏れる「メインストリート」、その丁字路の壁に何かが張りついていた。人の指だった。曲がり角の向こうから壁を掴んでいる人間の指……。だが、明らかに大きい。そして、蛆虫のように白い。ゴルスキを地の底へ連れて行った、あの手だと気づいた。俺たちはよほどの時間、自我喪失していたらしい。先回りされたのだ。
 足の先が痺れるのを感じた。まるで膝の関節が外れたかのようだった。俺たちはまた立ち竦んでしまった。
 その様子を見物するようにゆっくりと、曲がり角の死角から巨大な頭が覗き込んだ。
 照明の光は弱々しいにも関わらず、顔の全容を逆光で隠していた。黒いシルエットの中に、血走った赤い目だけがくっきりと見えた。白目も虹彩も区別がつかないほどに真っ赤に腫れ上がったその視線に囚われた瞬間、俺たちは逆方向へ向かって走り出していた。
 叫んでいたかもしれない。それすら判然としないほどに、夢中で走っていた。
 後ろからは、壁に身体を擦りつけながら小径へ入り込み、巨大な手足で水を蹴る音が聞こえていた。人間の走り方ではない、と思った。まるで、肉食の獣のように四足で走ることに気づいたんだ。まあ、そもそも見るからに人間ではないのだから今更なのだが。
 さらに気味の悪いことに、逃げ回っていると時折、その足音がふっと消えることがあった。水路内に響くほどの音だから、すぐに気がつく。しかし、しばらくすると今度は前方から聞こえるようになる。
 何度もそんなことを繰り返すうちに、俺は気がついた。地下水路の中に住むあの巨大獣は、俺たちよりもこの奈落世界の構造を熟知している。予知めいた直感力で俺たちの逃げ先を定めると、追い詰めるように先回りするんだ。相手は罠を巡らせる蜘蛛のようにも、穴の中を駆けずり回る蟻のようにも、そして狡猾な人間のようにも思えた。

「ま、待って……ここ、どこですか……?」

 フィリピアクの声で、俺は立ち止まった。怪物の足跡から逃げることで頭がいっぱいで、どこをどう走ってきたのかは覚えていなかった。
 慌てて周囲に光を巡らせた。湿った壁は見覚えのある黒灰色のブロックではなく、赤茶けた古い煉瓦に変わっている。ここらへんの通路では、見覚えのない造りだった。

「そんな……じゃあ、どこに居るのかも分からないってことですか?」

 その言葉に急かされるように、俺は記憶の中もまさぐった。何度も狭い通路を通り、貯水池に腰まで浸かって逃げた。見覚えのある箇所もある。だが、その順序が判然としない。

「俺は! アンタなら分かっていると思ってついて来たんだぞ!?」

 フィリピアクが俺の胸元を掴むと、唾を吐きかけるように怒鳴り散らした。だが、何を言っているのかは分からなかった。まるで耳元に心臓があるかのように、ドクドクと血の巡る音が俺の頭を揺らしていた。
 だからフィリピアクの動きが止まったことにも、俺はしばらく気がつかなかった。目の前から悲鳴にもならないか細い声がして現実に引き戻られると、色を失って硬直したヤツの顔が目に入った。
 俺のヘッドライトが顔面に当たっていても眩しがる素振りはなく、ただじっと俺の後ろを凝視していた。瞳孔が拡大と縮小を繰り返し、唇は荒い呼吸で急速に乾燥していっていた。

「どうしたんだ」

 と声をかけようとした瞬間、フィリピアクは叫び声を上げると、俺を突き飛ばした。

水辺の死霊ウトピェクどもめ!」

 踵を返して闇の奥へ走っていくフィリピアクの声は反響を繰り返していたが、確かにそう言っていた。
 そして俺はその意味を理解した瞬間、指先すら動かせなくなった。確かに何者かが俺の首筋を睨みつける気配がした。頭の中には、先ほど見たあの赤い双眸があった。
 目を瞑って首の跳ねられる時を待つことと、大砲の射線上に突撃していくこと。いったいどちらの方が慈悲ある最期だろうか! 俺は神を呪いながら、降りかかる死を目に焼きつけることを選択した。
 しかし、振り返った先には何も居なかった。巨大なイモリの化け物も、魂を引きずり込もうとする悪霊の姿も。

「助けてくれ! フロレクさん!! 白い化け物が!」

 代わりに俺を襲ったのは、闇の奥から聞こえるフィリピアクの悲鳴だった。「助けてくれ! 助けて!」俺は鞭を入れた馬のように立ち上がると、親愛なる後輩の絶叫に背を向けて走り出した。
 反響を繰り返したフィリピアクの声は、もうそれが化け物のものようだった。声だけになっても逃げ出そうとするように、あるいは俺も道連れにしようと追いかけてくるように、どこまで走っても耳に届いた。
 俺はフィリピアクの声と、白い怪物と、ウトピェクから逃げ続けた。一睡もせぬまま、何も飲み食いすることもなく、ずっと。怪物に襲われずとも、俺は餓死するだろう。そう思っている時に、転がる酒瓶を見つけてこの記録を書くことを思いついた。
 書くことに没頭すれば恐怖も紛れるだろうと思ったが、それは違った。なんとしても書き終えようと、俺の耳はさらに鋭くなった。今こうしているあいだにも、闇の奥で喉を鳴らす幻聴が聞こえてならない。
 だが、それももう少しで終わる。もしこの瓶を見つけたのがヴィネダの人間ならば、俺が産まれた「陸」の西の外れ、グラビンスキの街の神父に頼んでこの手記を葬ってほしい。都外や海外のだれかであるのなら、そこの教会に受け渡すだけでかまわない。

 ベネディクト・フロレク


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