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CREDO QUIA ABSURDUM  1,Fiat lux ⑪終

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 シャルビア東、ポロニア川の岸辺に建つ病棟の窓から、一人の男が外を眺めていた。
 シモン・スルニチェクである。
 狭い病室には、病床を囲むように男たちが座っていた。その多くは屈強かつ太々しい顔つきで、明らかにあの教団の線の細い信者たちが見舞いに来たわけではなかった。かと言って、スルニチェクを利用していたマフィアたちではない。眉間に苦労を象徴するかのような皺を刻んだ彼らは、むしろその対極である。

「これで三日目だ、スルニチェクさん。今日もだんまりか?」

 無礼というよりはいい加減な、そしてうんざりするような訊き方だった。
 スルニチェクがゆるゆると首を回した。質問した男と目が合うが、口は動かない。話しかけられたと言うよりは、物音に気づいたといった程度の反応だった。
 ドアの前に控えていた医師が首を振る。

「何度も言ったでしょう刑事さん。脳がやられてるんです」

 シャルビア署のベテラン、ミロシュ・トヴルディは椅子に背をもたれながら唸るような声で答える。

「そう見せかけてるだけかもしれない。なんせ、コイツは大詐欺師だものな」

 苦い顔をしていた。無論、警察がそれを二年以上も野放しにして、尚且つ暴いたのがあの降下教会だからだ。
 降下教会の推定通り、スルニチェクは宗教法人という繊細な隠れ蓑を使い、移民や貧民という足のつきにくい餌食を多く選んでいたが、同時に贈賄にも余念が無かった。

 「生き餌」の恩恵に与っていた地元魔術組合の上層部はおろか、新聞社や警察関係者、市の生活部や税務部など十の部局、さらにシャルビア市議会の半分に至るまで。彼らは教団の実態は知らずとも、そこから零れ落ちる不穏の残滓を執拗に隠しつづけていた。
 教団の崩壊は、瞬く間に街を巻き込む大スキャンダルとなった。そして、浮かび上がる莫大な裏金は、裏ビジネスの規模の大きさと、犠牲なった被害者の多さを暗示していた。
 まだ事件の全貌が闇の中である以上、警察が教主の病床へ通い詰めるのは当然の話だった。

「しかしですね、昨日はあの後、精神魔術師や祈祷師の方々が来て──」

「全員口を揃えて『この人はもうダメです』ってか? 魔術師の言うことなどアテにできるか」

「異教の神官も来ましたが言っていました、理性が戻ることはないと」

「アンタは自分の診断より占いを信じるのか?」

「その……私の目から見ても、もう……」

 刑事は立ち上がりかけた脚を脱力させ、苛立った溜息を吐きながら再び椅子に身体を預けた。
 スルニチェクは鉄鎚の一撃を受けるその最後の時、己の脳の限界まで“樹”の思考を取り込んで防御策を考え抜き、そして実現した。

 仮想天上物質エーテル結晶による障壁。それは、周囲の物質を極限にまで昇華し、限りなく神と天に近い物質だけで構成した無垢の盾。完全物質に類似するそれは、鉄鎚の衝撃を受け止めきった。
 創造主を僭称する魔術師が死力を尽くして作り上げた奇跡であり、反撃の狼煙になり得る逆転だった。
 しかし、男はその状態からさらに思考を加速させた・・・・・。反転攻勢の戦術か、相手の武器の解析か、あるいは、自分の計画が破綻した理由か……。
 いずれにせよ、男は自分の脳が焼き切れるのも厭わず巨大な思考の渦に飛び込んだ。
 何を考えていたのか、そして答えに辿り着けたのか──それはスルニチェクと神のみぞ知るところである。


 夜空が紺色から漆黒に染まる。街の明かりは賑わいから団欒のそれへ移り変わり、やがて消えていく。炎色のガス灯だけが照らす街路はやけに遠くの音が聞こえるようで、それがことさらに人の少なさを際立たせた。
 明日も朝早い川港の沖仲仕たちは案外早々に帰路に着く。荒くれ者たちが去った後の“ロズマリナ”には、仕事の一線から退いた老人たちが残って何度繰り返したかわからない戦前の思い出話に花を咲かせていた。もう蒸留酒しか飲めなくなって、北部名物のフレーバードウォッカを舐める彼らを視界の隅で見守りながら、カウンターでは早くも店じまいの準備が進む。
 残っている客などお構いなしにまかない料理へ手をつけるメリーだったが、一方の常連たちもむしろ「よう食べるねェ」「美味しいかい」「まかないだけじゃ栄養が足りないからコレも食べな」などと孫でも相手にしているかのようにダダ甘だった。
 流れ弾で、ゾフィアの元にもピロシキが回ってくる。もはや誰が食べるために注文されたのか分からないその皿を、彼女は苦笑いしながらメリーと分け合った。

「やっと借金完済だね、メリーちゃん」

 店主が皿を拭きながらカウンターに座った二人へ話しかける。初日の昼食代に加え、ゾフィアの家の宿泊費や食事代、その他諸々を払うため、メリーは四日間──うち一日は定休日だったが──“ロズマリナ”でアルバイトをする羽目になった。それも、今夜でおしまいだ。

「わたしは宿泊費なんて気にするなって言ったんだけど……」

 ゾフィアの口に冷めたピロシキを放りこみながらメリーがもっともらしく反論する。

「いやいや……借金は人を奴隷にするとソロモン王も言っています。わたしは奴隷じゃなくてゾフィとは友達でいたいので!」

「よ、よくそんな恥ずかしいことを……」

「ん〜〜? だって本当だし」

 赤面するゾフィアを見て、話を逸らしてあげようと店長が口を挟む。

「にしても、メリーちゃんが居なくなると僕も寂しいよ。店は大助かりだったし。それに、ゾフィアちゃんも9月からヴィネタむこうに行っちゃうんでしょ?」

「はい。お母さんも中央の病院に移してもらえることになったので」

 結局、ゾフィアの母も含めスルニチェクの施術を受けた信者を戻すことはできなかった。スルニチェク自身が言うように、彼の魔術は不可逆の現象だったというのが魔術医たちの見解だ。

「向こうの施設なら、そのうち解決法も見つかるかもしれないね……」

「……はい。私も、ただ待っているだけじゃなくて、向こうの大学に通ってみようと思うんです。……まだ、お母さんを治すために何をすればいいのかも、どこを目指せばいいのかも分からないけれど」

「でもね! ゾフィはすごいんですよ!」メリーがゾフィアの肩を引き寄せながら、なぜか誇らしげに語った。「学校の成績見るとウチの教会の奨学金制度フツーに突破できそうなんですもん! 実は頭良かったんだよ⁉︎」

「そりゃそうさ、大学行くのをお母さんを納得させるためにいっぱい勉強してたんだし。ウチでバイトしてたのも、金銭面で色々心配かけたくないからなんだよねー?」

 店長に言われてゾフィアは思い出す。そういえばそうだったな、と。
 進学にしろ就職にしろ、「シャルビア外へ出てみたい」と何気なく言った一言へ母は猛反発した。一人娘すら自分から離れていくことが耐えられなかったのだろう。しかし、人格批判まで混じったその猛烈な剣幕に、ゾフィアも反感を強めた。自分にはできるのだと証明したくて勉強もしたし、お金も貯め始めた。母に認めさせたいと始めたものがいつしか、母を避ける口実にもなっていたのだ。母との溝も、母の病状も、悪化し始めたのはその頃からだった。

「でもボクは困るな〜〜。看板娘が二人も居なくなっちゃうんだしな〜〜!」

「いつの間にわたしも看板娘になってるんですか⁉︎ ──って、しまったそろそろ夜行列車の時間が!」

 時計を横目に見たメリーが急いで料理を口の中に詰めていく。瞬く間に、並んでいた三皿が空になった。

「今日の便で帰るんだっけ? もっとゆっくりしていけばいいのに」

「いや……あんまり長居してると院長に怒られるので……。しかもお金使い切ったことバレそうだし……」

 ちなみに、スルニチェクと教団の事後処理のため来た同輩に帰りの旅費をせびったが「自分でどうにかしなさい」と無下にあしらわれた。

「そっか、じゃあしかたないな。──ゾフィアちゃん、片付けはやっとくから、お見送りしていきなよ」

 その言葉に甘えて二人は荷物をまとめ始める。メリーは「よっ」声を上げながら、“ユーリ”の入った巨大なトランクと旅行鞄を持ち上げた。

「じゃあ、ここらへんに来ることあったらまた食べに寄りますね!」

 「絶対だよ〜〜」と大人げなく手を振る店長に笑わされながら二人は扉を開けた。カラカラと軽やかなドアベルの音が店内外に転がった。
 外に出ると急に寒くなった気がした。客が少ないとはいえ賑やかだった店内に比べると、あまりにも静かだ。人通りもほぼ無い。ゾフィアの家を経由して駅まで向かう間、しばらく二人きり。
 その間、他愛のない話をした。半年後、首都ヴィネタに住むことになるゾフィアへ、メリーはオススメの小料理屋や観光名所のアドバイス、果ては地下水路に伝わる怪談まで語って聞かせる。そう、もうすぐ別れの時だが、その先には再会があるのだ。
 見慣れた角を曲がれば、もう家が見える。いつもより早く到着してしまった気がした。

「それじゃ、また半年後!」

 まるで明日も会うかのような気楽さで、メリーは別れようとする。
 ゾフィアは逡巡してから、心の内を打ち明けるために彼女を呼び止めた。

「メリー。本当にごめん。わたし……この後に及んでまだ心配なんだ」

「どうしたの?」

 手を振ろうとして振り返りそのまま向き直ると、俯くゾフィアへ少し歩み寄る。

「もし……もしも目が覚めた時、お母さんはどう、思うんだろうって。だって、お母さんはわたしより教主を選んで……でも、教団は無くなっていて……。お母さんがわたしのことをちゃんと見てくれるのか……恐いんだ」

 母は自らの安息のために娘を捨て、そして救い主に魂を差し出した。そんな人間を現世へ連れ戻して、母も自分も幸福になれるのだろうか。母を元に戻したいというのは、自分の衝動的なエゴでしかないのではないか。──ふと無心になる瞬間、そんな考えがゾフィアの心を苛んだ。

「大丈夫だって」底抜けに明るい声に、ゾフィアは思わず顔を上げてしまう。「どうしてお母さんがスルニチェク教主に知性を預けたか、ゾフィアは分かる?」

 予期していなかった問いにゾフィアは少し狼狽えつつも口を開く。

「不安を無くしたかった、から?」

「どうだろう? スルニチェク教主が言ってたでしょ。ゾフィのお母さんには『救世主になる』話をして同意してもらった、って。──お母さんは確かにこの世界から逃げたかったのかもしれない。でも同時に、きっと……この世界を変える手助けをして、そしてなにかを救いたかったんだよ」

「なにかって……なにを……?」

「決まってるでしょ」

 メリーの銅色の瞳と目が合った。目線が重なったことに気がついて、彼女は微笑みを深める。

「だから、ゾフィが幸せになれば、お母さんも喜んでくれるよ」

 メリーにつられて、ゾフィアの口元も少し笑っていた。

「そっか……そうだよね。──じゃあ、ちゃんと頑張らないと。半年後、ヴィネタで待っててね」

「当然! ……あ、でもあんまり頑張りすぎて身体壊さないようにね? バイトもたまには休んで……」

「分かってるって。メリーは院長先生に怒られないよう、ちゃんとしなよ?」

「う゛う゛……善処します……」

 ひとしきり笑い合って、再会を約束して、そして別れた。
 ゾフィアは戸口に立ち、メリーの黒衣が夜闇に溶けてもその背中を見つめつづけたが、やがて決心して自宅へ入った。明日から、少し変化した日常が始まる。

──メリーも、まるでくるくる回っているかと思える頻度で振り返っては手を振った。
 そしてゾフィアが家に入ったのを見ると、小さく呟く。

「頑張って」

 そう、世界は理不尽で、不条理で、不合理だ。しかしそんな世界だからこそわたしたちは出会い、奇蹟を起こした。奇蹟によって拓かれた道なのだから、きっと祝福されているだろう。そう確信を込めて、祈りの言葉を紡ぐ。

「きっとこれからも大変だろうけど、だからこそ──ゾフィの進む先に、光ありますように」


1,Fiat lux  了



【CREDO QUIA ABSURDUM】


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