CREDO QUIA ABSURDUM 2,プロテウス ④
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「修道、女……? どうして、こんな所に……」
壁にしがみつくように立つ男──ベネディクト・フロレクは、メリーの黒衣を上から下まで何度も視線を動かした。無理もない。普段は閉鎖されている地下水道、いくら聖アントニウスの後ろに続く者とは言え、修行の場とするには厳しすぎる。
メリーは怯える男の目を見つめ、ゆっくりと一単語ずつ明瞭に名乗った。
「わたしはメリー。降下教会の修道女です」
彼女の言葉に、フロレクは僅かに目を見開いた。
「降下教会……ということは、魔術師狩りの!?」
フロレクはそこまで言って、目の前の少女が手に持つ物が、人間大はある恐ろしげな鉄鎚であることに気がついた。
降下教会。戦中、魔術師に最も恐れられた組織。そこに所属する修道女たちは異能者であり、現在も怪異の調査や魔術師の管理を主な活動としているという──。
メリーを見つめる瞳に、畏怖とともに光が宿った。
「フロレクさん。貴方の書いた記録を見て、助けに来たんですよ」
その言葉が決定打となったのだろう、男は糸を切った操り人形のように膝から崩れ落ちた。
「ま、幻じゃあないよな……!」何度もどもりながら、自ら発声しながらその事実を噛み締める。「で、出られるのか……? この地下から……化け物の巣の中から……!」
フロレクの目からは涙が溢れていた。泣くようにも、笑うようにも見えるその表情は、きっとあらゆる感情が溶け合ったものだろう。嗚咽を漏ら肩を、メリーは優しく擦った。
と、その彼女の持つ通信機に遠く地上から電波が入る。
「正直な話、フロレク氏の生存は絶望視していましたが……諦めるべきではありませんでしたね。お手柄ですよ、メリー」
失踪から五日。怪物の存在が無くとも、この劣悪な環境である。メリーもアレクサンドラと同様、生存者の存在は諦めて任務に臨んでいた。
「えへへ……。まあ、お手柄って言ってもわたしは何もしてませんけど……」
悪臭漂う中、汚泥に塗れる仕事へ嫌気はあった。しかし、肩を震わせるフロレクの姿を見れば、もうそんな気分などとうに消え去っていた。
座り込む男へ、改めて手を差し伸べる。
「フロレクさん、地上へ帰りましょう。もうひと踏ん張りです!」
「ああ」とフロレクは手を取ろうとして、突然何かを思い出したかのように顔を上げた。「……いや、ちょっと待ってくれ!」
「うぉっビックリした!? え、ど、どうしたんですか?」
「怪我人が居るんだ! あいつこそすぐに地上へ連れてってやらないと……!」
「え。……えぇ!?」
「メインストリート」の入り口の反対へ駆け出す男の後ろ姿を、メリーは呆気にとられて見つめていた。
「まさか、ほかにも生存者が居たのですか?」
アレクサンドラの通信でメリーは我に返り、男のあとを追い始める。
「ちょちょちょちょ、ちょい待った! 怪我人って水道局の人? 何人? どこに!?」
フロレクは遭難していたとは思えない健脚で「メインストリート」を駆け抜けた。もはや、先ほどまでの弱った雰囲気は無かった。後ろに追いついたメリーに説明しながらも、まったく脚を緩める気配は無い。
「なんというか説明しづらいが……とりあえず一人だけだ。この先、あの化け物が入ってこれない狭い水路に、ずっと二人で隠れていたんだ!」
「怪我っていうのは?」
「『メインストリート』まで逃げてくる途中で、怪物にやられた! 重傷だ……もう一刻も猶予がない……!」
「そんな!」
「重傷」というフロレクの言葉に、メリーは頭を通る血液が冷えるような感覚を覚えた。おそらく、碌な手当もできていないだろう。そして、この地下水路の衛生環境である。自然と、二人の歩調がさらに速まる。
「メリー、こちらにも聞こえていました」無線からアレクサンドラの声が響く。「医療班を地上へ待機させます。近隣の教会で電話を借りますので、しばらくお前とは通信できなくなります。十分ほどはかかるでしょう」
「わ、分かりました」
「戻り次第、私も地下へ向かいます。……怪物と鉢合わせても、無理はしないように」
返事を待たず無線は途切れた。アレクサンドラが街へ向かったのが分かった。
会話の内容を聞いたフロレクは感謝の言葉を述べつつ、複雑な表情を浮かべて話を続ける。
「どこに化け物が居るのか分からない中で、アイツを担いで入り口まで逃げることはできなかった。だから……」苦虫を噛み潰したような顔で言葉を振り絞る。「食料が尽きようとする中、アイツは……俺だけでも逃がそうとした。俺は、アイツの厚意に甘えた。また……人を見捨てて逃げたんだ」
フロレクがメリーを顧みる。その瞳には、先ほどとは異なる光が宿っていた。
「降下教会……アンタに、あの化け物を任せても……いいんだよな?」
メリーは鉄鎚を握る手に力を込めた。
「はい。それがわたしたちのお仕事ですから!」
すでに二人は、「メインストリート」の終着近くまで走っていた。メリー一人で走れば地下水路の入り口まで五分はかからない。しかし、怪我人を運ぶとなると、三十分はかかるであろう。
そんな地下の果てで、フロレクは荒い息のままおもむろに地面に膝をついた。走り疲れたかに思えたが、違う。見れば、壁には大きめの亀裂とも言えるような狭い横穴が開いてた。
大人ひとりが四つん這いでやっと通れるほどの大きさで、少ないながらも水が「メインストリート」へ注いでいる。
「ここだ、ちょっと待っていてくれ」
「よくこんなところに……」
屈んで奥へ入っていくフロレクを見ながらメリーは呟く。すると、彼が通った後──入り口の近くの地面が目に入り、メリーは背筋が寒くなるのを感じた。
そこにあったのは、入り口の穴から幾筋も伸びる傷跡だった。まるで、巨大な何かがしきりに引っ掻いたような──。
「これって……」
傷跡と撫でると、脳裏に一つの場面が浮かぶ。
横穴で息を潜める二人。視線の向こう──穴の入り口には、中を覗く巨大な瞳、そして無理矢理に入り込もうとする指……。少しでも動けば、いや、壁が崩れたら……。──そんな恐怖の中をまんじりともせず過ごすのは、どれほどの恐怖であろうか。
「あ、あのー。大丈夫ですか?」気休めにもならないと理解しつつも、メリーは穴の前にしゃがんで声をかけた。「フロレクさん、中見えます? 後ろから照らしますよ」
狭い横穴が、懐中電灯の光で満たされる。かなり奥まで人が入れるらしく、フロレクの尻はもうずいぶんと遠い。
──怪我人は大丈夫だろうか……。
なんとか姿だけでも確認しようと目を凝らし、フロレクの向こうにあるものを見た瞬間──メリーは、懐中電灯を置いて立ち上がった。
今見たものを思い出し、何度か生唾を飲む。冷や汗が頬を伝った。
──フロレクさんが声をかけていたのは……。
思い出す情景が、現在の視界をシミのように黒く塗りつぶしていく。地下の牢獄を共に過ごした相手を揺さぶるフロレク。彼の向こうに見えたのは、臥した脚だけ。しかしそれは、明らかに──死体のものだった。
真っ白だったのだ。血の気が失せている、どころか、この数日間で死んだものですらない。生命を感じさせる赤みはなく、冷えた肌の色は水死体のそれであった。
暗くなった視界に、異常なほど白い脚の記憶が浮かび上がる。それを必死に揺さぶり、声をかける男。その姿を、メリーは見ていられなかった。
考えたくない想定が、頭の中に湧き上がる。
「フロレクさん……正気が……」
本当に数日前まで生きていたのか? あるいは……どこか、例えばあの大穴の部屋などから連れてきたのか……。それほど、この地下空間での潜伏が苦痛だったのであろう。理由や彼の心情は理解できる。同情も。しかし──あまりにも痛ましい。
「いや……でも。フロレクさん自身は生きている……。たとえつらくても……」
覚悟を決めて、もう一度横穴を覗き込んだ。
「ふ、フロレクさん! ここは危険です。貴方だけでもすぐに……」
「何を言っているんだ!? 置いていったら死んじまう。コイツは……命の恩人なんだ!」
「死んじゃうっていうか……」
もう死んでいるんだ、と告げることはできなかった。
穴の中でなんとか方向転換したフロレクが、頭だけ外に出す。
「こうなったら無理矢理引っ張っていく。アンタに、あの怪物を頼んでもいいんだよな!?」
「それは……さっきはそう言ったけど……!」
メリーが言い淀んだ、その時だった。
──バツン。
と、不意に音が響いた。
メリーとフロレクが、咄嗟に音の出処へ目を向けた。
百メートルほど後方、先ほど通り過ぎた通路の一部分だけが、不自然に暗くなっていた。電灯が一つ故障したらしい。甲虫が飛ぶような音を鳴らしながら点滅し、ほどなく完全に光は消えた。元より頼りない灯りである。消えたのはたった一つだが、それでもいやに闇が濃くなった気がした。
「…………」
不思議と、すでに目が吸い寄せられていた。
異様な自体は、まだこれからだというのに。
というのも、消えた電灯の隣──メリーの位置から見れば手前の一つが、同じように消灯したのだ。
さらに、消えた灯りのまたその隣が。
その隣が。
隣が、隣が、隣が、隣が、隣が……。
五メートルおきに設置された電灯が、一つずつ消えていく。水路には黒いインクを垂らすように暗闇が広がり、深まり、近づく。
「あいつだ……」フロレクが、恐怖に潰れた喉で叫ぶ。「あの化け物が来る……!」
「フロレクさんは穴の中へ」メリーは静かに鉄鎚を構えた。「わたしが、なんとかします」
フィラメントの狂う音は、アーチ状の壁によく反響した。巨大な怪物の足音のように、一歩、また一歩とその大きな歩幅で距離を詰める。
闇の帳──最初に消えた電球の向こう側で、まだ明るい通路の光が点のようになっている。
その白い点を、影が遮った。
瞬間、周囲の照明が一斉に弾けた。何重にもなったその音は、まるで水路内に雷が通ったかのよう。
その音と共に──途方もない重量が襲来した。
少女の細い身体は、易々と数十メートルを弾き飛ばされていた。
「────ッ!」
メリーは天井を蹴り体勢を整え、着地。水路に溜まった濁り水が、盛大に四方へ飛び散る。
──何? 今のは。
一切視界の利かない暗闇を見つめ、先ほどの一撃を思い出す。
常人の体躯であれば絶命しうるに足る重い一撃。咄嗟に鉄鎚の柄を防御に構えたが、その手にはまだ痺れが残っていた。だが、瞠目すべきはそのパワーではない。覚えのある、異様な感触。
獣が頭から突進してきたわけではない。
滑らかな体重移動によって威力を増大させた、拳による攻撃だった。
──怪物はまさか……人型?
メリーの思考を遮って、闇の奥、距離感の掴めない無間の先で水が弾けた。ダ、ダ、ダ、ダ、と連続。四足で迫る。
メリーは身体をねじり、一歩退く。その目の前を、風を切る音が薙いだ。フードから溢れた髪が千切れ、闇の中へ吸い込まれていく。
──爪だ。メリーはそう直感した。
だがその直感を確かめる間もなく追撃、そして連撃。メリーは後方へ大きく跳んだ。今度は紙一重ではない。右へ、左へ、上へ。跳弾するように水路内を跳ね回り、野蛮な斬撃を避けきった。
避けきった、のだが──問題は、怪物の攻撃が彼女を追尾していることだった。
攻撃の第二波が過ぎ去り、メリーは息を深く吐いて脳をクリアにする。
どうやら、考えていた「嫌な想定」が当たったらしい。
「こっちが視えてる……?」
正確な聴覚、あるいは、わずかな光でも機能する強力な視覚か。少なくとも怪物は、この暗闇の中で少女の位置を補足できる力があるらしかった。
攻撃の重さから、相手は少なくとも全長五、六メートル。水路内だから屈んでいるのか、四足で移動してはいるが人型に近い体躯。手が使える、というのは厄介だ。
そして何より、メリーだけ目隠しで戦っているような状況である。
「だったら──」
メリーは身の丈すら超える鉄鎚を上段に構え、その頭部を前方へ定めた。脚を開くと腰を落とし、相手の出方を待つ。
視えぬのなら、攻撃が来た瞬間を狙えば良い。つまりは、カウンターを狙うのだ。
好機は、すぐに襲来した。
殺気が膨らみ、気配が空間を圧迫すると──闇を突き破ったのは、再び巨大な拳。
構えた鉄鎚にその暴力が触れる──瞬間、メリーは柄を返した。僅かな力加減で攻撃が逸れ、唸る空気が少女の耳元を掠める。
いなした勢いをそのままに、メリーは鉄鎚を振り抜いた。
一撃では終わらない。着撃の音と感触を確かめる間もなく前進。二撃目、重力と慣性、そして遠心力を纏った鉄鎚が再度牙を剥く。それをさらにもう一度打つ三撃目。四撃目、五撃、六、七──!
水路内に嵐が吹き抜けた。
鉄鎚が風を切り、石の壁を抉る。
巻き上げられた水が雨のように降り注いだ。
一振りで化け物を屠りうる打撃を、何度も容赦なく。
そして、身体を鉄鎚ごと縦回転させ大ぶりの一撃を繰り出すと、メリーは通路へ着地した。
圧倒的だった。
爆撃音のような残響が通路の中を反響しながら遠ざかっていく。
壁や天井の破片がパラパラと音を立て髪に当たる。
だが──メリーは不可解な状況に困惑していた。
一撃もまともに当たった感触が無かったのである。
相手が撤退したのではない。闇の中には確かに存在感があった。どう考えても、通路の中で身体を折り曲げ、器用に攻撃を避けたとしか思えなかった。
何発かは当たっている。だがそれも、着撃の瞬間に滑るような手応えがあった。しっかりと受け流された時に感じるものだ。
最初の一撃にしても、カウンターにいなした拳の返しは異常なほどに早く、こちらが攻撃に移るころには迎撃の体勢を整えていた。
そして最後の一撃──通路を真っ二つに叩き切るかのような大回転。その途中で、メリーは怪物の息が身体に当たるのを感じていた。壁にぴったりと身を寄せて、すぐ真横を通っていく攻撃をやり過ごす巨体の息を。
地下水路の中で、位置が入れ替わっていた。相手は人間より遥かに大きい化け物。攻撃を避けながら通り過ぎることなど可能なのだろうか。
耳が良い、あるいは目が良いという次元ではない。こちらの出方が完全に見抜かれていなければこんなことは起こりようがない。
メリーの腰から首元まで、背筋を伝って痛みにも似た感覚が登った。神経を伝って、手足の末端まで痺れる。恐怖、そして嫌悪感である。
だが休む暇は無かった。
目の前の闇から、口笛のような音が迫った。
メリーは再びカウンターに構える。触れた攻撃を今度は押し込めるように、全力で鉄鎚を振るった。次こそ必ず当てるために。
だが、鉄鎚はまたしても空を切った。それどころか、相手の拳の重みすらない。
メリーの傍らに、小さな石が落ちた。鉄鎚に当たったのは、これか──。
無防備になったメリーの身体に、巨大な拳が衝突した。
「────ッ」
浮遊感、そして地面の固さと水の冷たさ。
メリーはゴロゴロと数メートル転がりながらも、鉄鎚を杖代わりに立ち上がった。彼女の変異した身体は、すぐさま傷の修復を開始する。
ダメージはまだ問題ではない。スペックでも圧倒しているはずである。
だが、この通路を満たす闇と同じように、相手の能力が見えない。
乱れた息で構え直すメリー。それをあざ笑うような気配が、暗黒の奥から漂っていた。
しかしその時、不意に後方から光を感じた。
「フロレクさん!?」
振り向くと、いつの間にか遠くなっていた横穴からフロレクが出て背を向けていた。その理由をメリーはすぐに察する。入り口へ向かうつもりなのだ。しかしその傍ら、ランタンの光に照らされていたのは──。
「……!?」
白い人影だった。穴の奥に横たわっていた、あの水死体に間違いなかった。左腕だけフロレクの肩に預け、脚はだらりと脱力して引きずられている。
「な、何やってるんですか!?」
メリーは叫びそうになって、言葉を飲み込む。
今、フロレクと怪物の間には自分が立ち塞がる形になっている。このまま数分間足止めすれば、フロレクはこちらへ向かうアレクサンドラと鉢合わせになる。そうすれば救出は成功したようなものだ。
危険な手である。気は向かない。しかし、フロレクはあの死体が「危篤である」と思い込んでいる。彼にとっては、一分一秒を争う自体なのだ。
「…………っ、急いで下さいね!」
言い直して、メリーは怪物の潜む方向へ向き直った。
先ほど相対した感覚ならば、足止めであれば難しくはない。ただ、不気味なのはあの正確無比な動きである。思ってもいないような行動をとってもおかしくはない。
攻撃か、それとも押し通ろうとするか。あるいは、先ほどのように投石などで意表を突いてくるかもしれない。だが、どうあってもフロレクは守りきる。
メリーはあらゆる予兆を見逃すまいと、不気味なほどに沈黙する闇を睨みつけた。
──沈黙?
漠然とした違和感が、吐き気にも似た不快感となって喉を登った。
──地下水路の中に住むあの巨大獣は、俺たちよりもこの奈落世界の構造を熟知している。予知めいた直感力で俺たちの逃げ先を定めると、追い詰めるように先回りするんだ──
不意に、フロレクの手記の一文が脳裏に浮かんだ。
もう一度、暗黒へ注視する。
──この向こうに、本当に化け物は居るのか?
「違う──フロレクさん! 戻って!!」
叫びつつ振り返るのと、フロレクの居る方向から重い音が響くのは同時だった。
ランタンでぼんやりと照らされた水路。その輪郭の隅に、二人の男の影が浮かんでいる。フロレクと、水死体だった。
彼らの目の前にあるものを、メリーは一瞬背景だと誤認した。
白い壁に描かれた、戯画的な人間の顔の落書きであると。
だが、その顔は、笑うように口元を歪めた。
「────あっ」
フロレクの喉が詰まる。
彼の視線の先にあったものは、巨大な翁の顔だった。洞穴生物のように、体毛代わりのぬめりに覆われた真っ白な肌。贅肉が垂れるように重なった皺。小さく落ちくぼんだ眼孔には赤い瞳。禿げ上がった髪はざんばらに伸び放題で、まるで獅子の鬣のよう。
しかし、彼が怪物たる証左は口元にあった。人間のものではない、無数に並んだ乱杭歯。細く長く無茶苦茶に生えたそれらは、耳元まで裂けた口腔に収納することもできず、人中も下顎骨も深海魚のように前方へ飛び出ている。
そして顔の後ろには、歪んだ白い身体が水路をみっちりと塞いでいた。
「止まれェ──ッ!!」
メリーは怪物へ向けエウラリアを投げ放った。
ライフル弾を超える速度で空気を裂く鉄鎚。
しかし、穿ったのは水路の壁。
「嘘……!」
怪物はまるでその着弾点を予見していたかのように、器用に身体を折り曲げて避けたのだ。鉄鎚を、メリーを視界に捉えることすらなかった。瞳はただ目の前の餌食だけを見ていた。
水路それ自体がすぼまるかのように、二人の男へ掌が迫る。
メリーの居る位置からフロレクの元まで、四十メートルはあるだろう。彼女の脚力であれば三秒で辿り着ける。しかし、それでも遅いのだ。
踏み込んだ右足の感触が、妙に柔らかい。近づこうとしているはずなのに、暗闇のなかに浮かぶ殺戮の光景は、むしろ遠くなっていくように見えた。
──間に合わない。
そう思った時、
メリーは再び、信じられぬものを見た。彼女の見開いた目に、速度の緩んだ回転覗き絵のようにその場の一挙手一投足がくっきりと写った。
フロレクに伸びる怪物の魔手。その指に、石製の大型刃物が刺さっている。
それを突き出しているのは──フロレクの肩を離れた、あの水死体だった。いや、死体ではない。異常なほどに白い肌をした、生きた男である。襤褸の破れた隙間、脇腹の傷から流れる赤い血が、その生の証だった。
白い男は横へ跳び退くと刃物を引き抜く。
そして瞬く間に怪物の肩口まで上り、首元へ突き立てた。怪物は予期しなかった反撃に悲鳴を上げ、踵を返した。しがみつく男をそのままに、闇へ逃げ込む。
怪物と男の姿が消える瞬間、メリーは聞いた。
男が、彼女を見つめながら叫んだ言葉を。
†
アレクサンドラ駆けつけた時、メリーとフロレクは大穴の部屋に居た。
地面に垂れた血が「メインストリート」から点々と続き、部屋の奥の穴の淵で消えている。二人は、血痕の消えた先を見つめていた。
「助けられたんだ。あの男に」フロレクはとつとつと語る。「ちょうど瓶を水路に流した時、暗闇に赤い瞳が光っていた。俺は、あの化け物だと思って悲鳴を上げたよ。だが、出てきたのはアイツだった。最初、幽霊か何かだと思った。水死体みたいに白い人間なんて、見たことがないからな」
自嘲するかのような口調だった。
「腰を抜かしたよ。それを見たアイツは、干し肉のような食料を分けてくれた……。言葉は通じなかったが、そのあと入り口近くまで案内してくれた。そして、あの巨大な化け物と鉢合わせた時も──」
沈黙が流れると、大穴から吹き抜ける空気の音が部屋にこだました。
「何があったのですか?」
アレクサンドラが尋ねた。
「怪我人が居るってさっき言ってましたよね? その人が、怪物に連れて行かれたんです。この下に」メリーは大穴を見たまま、暗い闇の底を指す。「肌も、髪も、真っ白な人でした。だから、間違えたんです。フロレクさんの気がおかしくなってて、死体に話しかけている、って」
「いや……俺も気が動転していたんだ。アイツが死にかけてて、そんな時にアンタを見つけたから──」
宥めようとするフロレクを、メリーは静かな言葉で制止した。
「それでもわたしは、信じるべきだったんです。フロレクさんを」
「そんな……」
妙に落ち着いたメリーを見て、アレクサンドラは胸騒ぎを覚えた。
「メリー、この穴を降りるつもりですか?」
フロレクも血相を変えた。
「まさか……危険だ! それに……アイツはもう、生きてないかもしれないんだぞ!? 大怪我であれだけ動いたんだ。それに、怪物が……」
「頼まれたんです。あの人に」
「頼まれた……?」
「ラテン語でした。ちょっと訛っていたけど、たしかに聞き取れた」
脳裏に焼きついている。闇に消えていく男の顔が。懇願するような、怒りに燃えるような形相。そして、彼が最後に放った言葉を思い出す。
「この怪物を殺してくれ、と」
メリーはエウラリアを担ぎなおして振り向いた。その顔には、いつものような軽薄さも、思い詰めた様子も無い。
「院長。あの怪物、わたしの攻撃は全部見切っていたのに、白い人の攻撃は避けられませんでした。……何か関係があるかもしれません。だから、調べておいてもらえますか? この地下に、いったい誰が住んでいるのか」
穴の淵に、踵をかける。
「メリー、ちょっと待ちなさい!」
「あと、フロレクさんを地上までお願いします」
それだけ伝えると、少女は深い暗黒の中へ落ちていった。
次の話 →
【CREDO QUIA ABSURDUM】
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