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CREDO QUIA ABSURDUM  2,プロテウス ⑧

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 怪物は地の底で目を開けた。眠ってはいなかった。正確には、眠ることができないのだ。彼の耳元では常に死霊達が囁き、まどろみに沈むことを許さなかった。
 太陽を浴びたあの日、彼は死んだ。死んだはずなのに、肉体に魂が縛られている。生命活動を停止した身体は、生物としての基本的な欲求を埋めずとも維持できた。しかしそれは、満たせぬ飢えの始まりでもあった。
 彼はかつての同族を喰らった。飢えは治まらなかったが、その生を取り込むことで再び身体に火が灯ると信じて……。堰き止められた水のように、死んだ身体に留まった魂は腐りきっていた。倒錯した理論に身を委ねた時、彼は精神まで怪物となった。
 しばらく前から、彼には不穏な未来が視えていた。自らに、本物の死が訪れんとしている。予知は、近い未来ほど確度が高くなる。この数日、不安に駆られた彼は思い立つ度に死者達へ未来を尋ねた。聞く度に死の姿は明瞭になっていき、今ではもう、その輪郭が定まらろうとするほどに近づいているようだった。

──哀れな怪物よ! 神々の慰み者よ!

 耳元で叫ぶ声は振り払えない。

──間もなく貴様の首を、死神が刈り取るだろう。黒衣に身を包んだ死神が!

 怪物はもがき苦しむ。狭い水路に手足をぶつけ、忘れられた岩壁に爪を立てた。

──来るぞ! 来るぞ!

 怪物は身を守るように身を縮こませた。

──来るぞ! あれは──濁流だ!

 顔を上げた怪物の鼻に、飛沫しぶきが当たった。
 暗闇の奥から音を立て襲来する激流に、人外の身は成すすべなく押し流された。


「もう一度事故を起こす!?」

 院長の言葉に、メリーは思わず声を大きくした。

「大量の水を引き込んで、あの怪物を地下から押し流すわけです。地上で準備するので、怪物の予知にも引っかからないはずです」

「いや、ええ……?」あまりにも強引な作戦に、メリーは絶句せざるを得ない。「いや、っていうか、また水が氾濫したら地下の人たちが巻き込まれますよ!?」

「それについては問題ない」テレイシアが口を挟んだ。「あの大穴は排水用の巨大水路だ。隣接している神殿付近であれば、水は入り込まない。前回の洪水──お前たちの言う“事故”──の際にも、あの場所に居た者たちは助かった」

 地下水路と比べて神殿付近に水害の形跡が無かったことに、メリーは合点がいった。

「それに、もうあの場所以外に居た一族は死んでしまったからな」

「そっか……。ん? いやでも、地上もまた下水道が逆流したりしますよ? また色々被害が出るんじゃ……」

「前もって注意喚起しておきましょうか。エルラフグループがまた事故を起こしたことにすれば、皆さん素直に従ってくれるでしょう。前科がありますからね。──ああ、現場に居る作業員達も追い出さなくてはいけませんね」

「ひどくない……?」

 一人ドン引きしている少女を置いてきぼりにし、院長は計画を固めていく。

「ところで問題は、どこから怪物が出てくるのか、です。そのために、貴女方に占ってほしいのです」

「なるほど……。残っている者総出でかかれば、正確な場所を予測するのにそう時間はかからないだろう」

「分かりました、では」アレクサンドラはメリーの肩に手を置いた。「夜明けと同時に決行しましょう」


 とぐろを巻く激流が、四方八方から怪物の身体を打ち据えた。何度も壁に叩きつけられる。空気を求めようにも、水圧に手足を絡め取られてもがくことすらできない。しかし突然、開放感が身を包んだ。
 広い空間に出たらしい。叩きつけるような水圧から這い出ると怪物は目を開き、驚愕した。
 目の前には、数百年前に見た景色が広がっていた。
 地上は様相を変えていた。しかし、変わらないのはこの広い空だ。夜明け前の群青色、か弱い光を放つ星々、白く色褪せた月……。これは、かつて日の出を見た朝、最後に人間だった頃の記憶。
 チャルノ川を遡るように目で追った。反射する空の色は、冥界の冷たい色から天上の炎の色へグラデーションを描いている。地平線の先に太陽の姿はまだない。それにもかかわらず、これほど世界を照らす大いなる力よ!
 だが同時に、陽光を背負って立つ姿を見留た。それは、予知で知った死神の姿そのものだった。
 血濡れの黒衣に、骸を象った巨大な鉄鎚──降下教会のメリーである。
 ──キンメリア人の予言した場所は、奇しくも瓶詰め手紙の流れ出た排水口だった。排水口を出て広がるのは、工事のため整備された、川に面する広い更地。怪物が隠れる場所も、逃げる先も無かった。
 暁の光に浮かび上がった怪物の姿は、地下で見た時と変わらず不気味だった。ヒトを戯画化したような歪な巨人。狭い水路に潜んでいたせいか、折れ曲がった背骨と伸びた四肢は爬虫類のよう。そして、薄い白肌は陽を浴びて一層ぬめりが目立っていた。
 だが、それでもメリーは不思議と、以前のような怯みを感じなかった。
 先に動いたのは怪物だった。
 獣脚を巨大なバネに突進する。
 メリーはそれを避けようとして──違和感。少女の避ける先を塞ぐように、巨大な爪が迫る。
 ──そう、怪物にはまだ霊達の声が聞こえていた。夜の明けきらない今であれば、予知は可能なのだ。
 しかし、それまでだった。
 爪を立てた右手が、軽い力で跳ね返された。怪物は状況を理解する前に、反射的に霊の声に従って追撃した。左腕で突きを放ち、その手応えの無さに初めて自らの劣勢を悟った。
 少女に、攻撃が当たらないのだ。
 いくら攻撃をしようと、最速で霊の指示に従おうと、少女の髪すら捉えることができない。すべて的確に避け、身の丈ほどもある鉄鎚で弾き返される。
 前回と、立場が逆転していた。
 地下でメリーが押されたのは、あくまで予知と暗闇の相乗効果があったからこそ。視界が開けたのならば、彼女の身体能力と反応速度は予知の先へ回り込める──!
 怪物の耳元で霊たちががなり立てる。──後ろへ下がれ、不意をついて右腕で振り払え、退け、鉄鎚を左後ろへ避けろ、体当たりで体勢を崩せ、避けられるからすぐに退け、噛みつけ、下がれ、退け──。
 半分も実行できなかった。いや、実行したところで、それに合わせて少女は動く。未来に食いつくことができない。
──鉄鎚が右から横一閃に来る、不意をついた蹴りにも対応しろ、次は左から脇腹をめがけて、これは……無理だ。
 巨体が宙に投げ出された。痛みを感じる暇も、瞬きすら待たず、地面に叩きつけられた。

──次は、どうすれば。

 怪物の目に、逆光を浴びた漆黒の姿が映った。表情も視えぬ死神は、鉄鎚を振り上げて迫る。
 だが彼の目の焦点は、すでに彼女に当たっていなかった。見つめていたのは、その後ろに輝く眩しい光──あれが、太陽か。
 もうすでに、霊たちの声は聞こえなかった。
 更地が揺れ、チャルノ川の広い水面に波紋が走った。

────。
 ぼやけた意識の中、怪物はただ横転した世界を見つめていた。
 すでに痛みは無かった。少女は何か弔いの呪文らしきものを述べていたが、異教の言葉に何か意味があるとは思えなかった。
 それよりも、目の前の景色に怪物は見とれていた。
 ゆっくりと昇ってくる温かな光。暗闇に慣れたこの目には眩しすぎるが、そんなことはどうでもいい。どうせ、最期に見る景色なのだから。
 暁の星のように薄れていく意識の中で、怪物は考える。
 死んだら、自分も地の底へ還るのだろう。だが、子らに何を伝えたら良い? 数百年の孤独を語り、変質する身体への恐怖で脅し、禁忌を破る愚かさを伝えれば良いのか?

「…………」

 遠い地平線の向こうで、日輪が繋がった。

──いや、伝えるべきはこの風景だ。この美しさを知らない一族のために、私が語って聞かせよう──。


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【CREDO QUIA ABSURDUM】

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