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ふるさとに、還りたい。

大きな湖のある、田舎で生まれ育った。
コンビニなんてものはその村には存在しなくて、お天道様によるお恵みと人の贈与によって、住民の生活が成り立っていた。

小学校、中学校、高校、どこに行くにも家から遠くて、こんな田舎勘弁してくれよ!なんて、嘆いていた。勉強に部活にあけくれる毎日で、洒落た女子学生ライフはずっとお預けだった。


大学生になって、都会を知った。
その街にはなんでもあった。24時間空いているスーパー、深夜まで明るいボーリング場やカラオケ、イケてる若者たちが集うカフェとバー。

何もかもが新鮮で、刺激的。知らないうちに、眠らない街に染まった。



たまに、退屈なふるさとにも帰っていた。
GW、お盆や年末年始、長期の休みになれば、それがルーティーンかのように。

「こっちに帰ってきてるん?会おうよ!」

と友人から連絡をもらい、再会する。
何も変わってないね、なんて言いながら、昔ばなしに花を咲かせる。

毎回、繰り返す。

楽しい時間、だった。そう思わなくなったのは、一体いつからだろうか。



大学卒業後、いろんな場所に住んだ。
大切にしたい思い出と、忘れてしまいたい思い出の両方を背負って、同じ街で生きていくのは、私には荷が重すぎた。

よく言えば旅、ストレートに言えば現実逃避を。

数々の記憶を住んできた場所に少しずつ置いて、新しく生活を始める。それが叶うのであればずっとそうしたい、と思うくらい。



それでもたまに、あのふるさとを思い出す。

風がビュンと吹いて、新緑がざわざわっと音を立ててゆれる。余韻を残しておしゃべりを愉しんで。高い空からはピーヒョロロと鳶が陽気に奏でている。

体が自然と一体化したように感じる。この瞬間が手に入るのであれば、なんだってできてしまうんじゃないかと思うくらい、眩しい。私には眩しすぎた。


私には「実家」というものが、もうない。

特に悲観的には思っていない。形あるものはいつか滅びる。その時が来たまでのこと、どうしようもない。むしろ、あの場所に戻れると思うと、怖い。あまりにも多くの記憶を置いてきてしまったから、今更それをどうしたら良いか、どうすべきかなんて、考えただけで、ゾッとする。

だから、なくてよかった。



昔、祖母のお葬式で、親戚が家に集結した。田舎の葬式は賑やかだ。知らないおじさんおばさん、そのちびっ子がこぞってわいわいする。一旦悲しんだあと、しっぽりと宴会をする。あの人は酒飲みだったとか、足が速かったとか、実は結構な遺産があるんじゃないかとか、冗談まじりでいろんなことを話す。

小さい時は、不謹慎だけれども、その時間がちょっと楽しくて。

大人になるにつれて、億劫になった。色々聞かれても困ると思ったから。


「私が死んだら、こんなたいそうな葬式はしてくれんでいいで、川に流してくれ。」

困った顔の私に、親戚のおばあさんが言った。ヨボヨボで明日にでもあなたの番ですよ、となりそうな熟女。

グッと心を掴まれた。そして、ガハハと笑ってしまった。

意地悪そうな冗談をいう彼女。その毒が子供の頃から大好きだった。おばあさんは私の目を、少し灰色がかったまん丸い目でじーっとみた。心まで見透かされているようで、こりゃたまらんな、と思ったのをなんだか思い出した。


数年後、あのイカしたおばあさんが亡くなった。
お花いっぱいに囲まれて、安らかにお眠りになった。誰も彼女を川に流したりなんかしなかったけれど、あの時の彼女の発言がちょっとわかったような気がして。

死んだ人に大金を使ってまで葬式してくれなくてもいい、という遠慮の気持ちと。

自然に還りたい、そういう気持ちもあったんじゃないかなと。


私は、まだまだ生きる予定でいる。

この命が尽きるまでに、これからまだいろんな街に住んで、思い出を更新していく。良いことも、嫌なことも、全部。

ヨボヨボで人生を全うしたのであれば、あのキメ台詞をいつか言いたい。

「ふるさとのあの湖に流してくれ。」と。

言われた側は困惑するであろう。事件性を疑われるかもしれないし、環境問題的にどうかと、なるかもしれない。

そんな時は、言葉を足して。

「あなたと私の思い出を、あの湖において、新しい人生をスタートさせてね。」と。

いつか言いたい。





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