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制服を着る

こんな私もかつて制服を着ていた。
通算して7年、幼稚園、中学、高校の時代に。

アルバムに残っている入学式の写真は、どれも「誇らしげ」に写っている。カメラの前でポーズをとっていた本人もさることながら、カメラを構えていた両親の誇らしさのほどはいかばかりか。

あれは何だったのだろう。
学生服を着ている自分と、着ていない(普段着の)自分。
あの違いは?

特に自覚無く、大人から言われるままに「着せられていた」はずなのに、子供ながら確かにそこにあった高揚感は?満足感、帰属感、安心感、全てが当てはまっていた気がするけれど、、両親の感じていた誇らしさを察していた、というのが正直なところかもしれない。

制服の威力。

生まれも育ちもバラバラな者が学生服というものに袖を通した途端、自分より大きくて確かなモノの一部になる。名前の無かった者が、いきなり大きな看板を背負わされた途端、恥ずかしいことはできなくなる。

それは、血統書つきの犬になる誇らしさ?
一匹で泳いでいたイワシが、突如イワシの巨大な群れの一部になる安心感?

毎年、就活シーズンになると目につくあのリクルートスーツを見ていると、日本は「制服」というものの大国のように思えてくる。誰に強制されたわけでもないのに、企業まわりをする学生達は判で押したようなリクルート姿に完全変態している。まだ特定の組織の一員(社員)になる前から「私、怪しい者ではありません」という、制服効果の先取り=帰属効果、忠誠心の先取りではないか?

制服は、自分を組織の一員に変身させる術なり。

高校以来、制服というものに縁の無かった私でも、電車など車中で制服姿の小中学生を見ると、つい見てしまう。幼い子供の制服姿は、親からもらった祈りの御札(おふだ)だと思うから。いつかカボチャに戻ってしまうシンデレラの馬車を見ているようだと心の中で思ったとしても、つい見てしまう。

そうか。
冒頭の制服は、60年前、両親が私にくれた御札(おふだ)だった。あの後、最後の制服を18歳で脱いだ後、着たいと思った制服は無かったけど、このお守りは、まだあったかい。

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