見出し画像

「編む」ことと「視点」

ここ2年ほど、ほぼ毎月参加している「探検読書」。参加者が各回のテーマから思いつく本を持ち寄り語り合う、コロナ禍にあってオンラインでも非常に深い対話のできる貴重な場です。

3月のテーマは「編む」
今回わたしが紹介した本は「もし幕末に広報がいたら 『大政奉還』のプレスリリース書いてみた」(著・鈴木正義)。

幕末に限らず、縄文時代から明治時代に至るまでさまざまな歴史上の出来事について、「広報がいたらどのような報道発表をしていただろうか」という観点からプレスリリースを作成し、広報という仕事をするうえでのポイントや、新たな歴史の見方を示している本です。

サブタイトルにある「大政奉還」のプレスリリースはもちろん、「本能寺が発した『本能寺の変』のプレスリリース」のような、事件の当事者(本能寺の変の場合は織田軍もしくは明智軍)とは異なる立場から書かれたもの、室町時代を「北斗の拳風の世界観で映画化してみた」場合の制作発表といったフィクション性の高いものまで、バラエティ豊かでユーモアに溢れています。

この本から「編む」を語るために、「忠臣蔵のプレスリリース」を引用しました。わたしたちのよく知る忠臣蔵のあらすじとして、この本には以下のように記されています。

赤穂藩の藩主浅野内匠頭は、意地の悪い吉良上野介にたびたび嫌がらせを受け、江戸城松の廊下で殺傷沙汰を起こしてしまいます。その結果、江戸城内での不祥事の責任として浅野内匠頭は切腹、浅野家はおとりつぶしとなります。理不尽な嫌がらせから非業の死を遂げた主君、何のおとがめもない吉良上野介。浪人となった元赤穂浪士47人は苦労の末に吉良邸へ討ち入り、見事、上野介の首を取り、主君の無念を晴らしたのでしたーー

忠臣蔵のプレスリリースを書くとしたら、考えうる発信元は赤穂浪士たち、吉良家、あるいは「松の廊下事件」の裁定を行なった江戸幕府あたりでしょうか。この本では吉良家の立場から書かれたプレスリリースが掲載されています。
このプレスリリースでは、吉良家の主張として以下の2点が示されています。

・赤穂浪士は今回の襲撃が正当なあだ討ちである根拠として、松の廊下の事案は「喧嘩両成敗」の原則があるにもかかわらず、義央(※吉良上野介)に処罰がなかったことを挙げています。しかし義央はこの際、刀を抜くなどの抵抗を示しておらず、喧嘩ではなく浅野内匠頭による一方的な暴力行為であったことを、幕府も裁定しているところです。
・あだ討ちとは本来親族にのみ認められる特例であり、主君の敵を家臣が討つ、ということは過去に判例もなく、当家としては今後の幕府による公平な裁定が下されることを期待します。

最終的には浪士たちが切腹を命じられ、吉良家の主張が認められた形となりました。しかし、現代における忠臣蔵は「赤穂浪士たちの忠誠心を称え、美談とするストーリー」として知られています。もし上記のプレスリリースのように、吉良家が彼らの主張をより広くオフィシャルな形で広報していれば、忠臣蔵の物語はまた違った形で伝わっていたかもしれません。わたしたちのよく知る忠臣蔵は、赤穂浪士を支持する立場から一方的に編まれた物語であるとも言えます。

改めて「編む」という言葉の意味をひくと、「いろいろの文章を集めて書物を作る。編集する。(デジタル大辞泉)」と表現されています。この「編む」プロセスにおいて、編む人の主観が少なからず影響します。そしてわたしたちは、誰かによって編まれた情報や物語によって構成された世界の中に生きています。もしもこれまでの歴史において、違った編み方がなされていたら、わたしたちは過去の出来事について違った認識をもつことになったかもしれません。そして、日々さまざまな情報を紡ぎ発信しているわたしたち自身も、世界の編み手であると言えます。

探検読書でこんな感じの話を投げかけ(トップバッターで紹介しました笑)、また他の方の発表にも「人生を編む」「できごとの意味づけを編み出す」「知識を編み直す」などさまざまなキーワードが含まれていました。そして次第に、「『編む』という行為を意識することによって、編み手の存在が浮かび上がり、自分とは異なる視点を獲得できるのではないか。」と感じるようになりました。

また、主催者のおひとりである原尻さんの発表から、「『編む』行為とメタ認知能力には関連があるのかもしれない」とも思いました。知識を編み直すには、知識と知識の間にあるつながりを捉えることが必要でしょうし、毛糸を編んでセーターをつくるにしても、完成後のイメージを頭の中に置きながら、ひと目ずつ編んでいかなければシルエットが崩れてしまいます。(残念ながら生まれてこのかた編み物をしたことがないので、想像だけで言っていますが…。)
とはいえ、独りよがりな目線で「編む」こともできてしまいます。より豊かな人生を送れるような世界を編む、そのために必要なのが俯瞰的な視点である。そういう関係性なのかもしれません。

そして、すてきな編み物をつくるためには、バリエーションに富んだ材料が必要です。世界を編む、人生を編む、という文脈で言えば、この「材料」は経験だったり本だったり、見聞きした情報だったりするでしょう。毛糸の太さがまちまちだったり、色がバラバラだったり、時にはキラッと光る糸が無造作に混ざっていたりするかもしれませんが、多様性がありわくわくするような編み物ができたらいいな、と思います。
というわけで、今回読んだ本や探検読書で語り合ったこと、そこから感じたことを文章という形で自分なりに「編んで」みました。

(ちなみに、3月の探検読書の1週間前に視聴したウェビナーにて、学習院大学の赤坂憲雄先生が「編む」という行為に触れられていました。たいへん僭越ながら「編む」ということについて考え始めていたこととつながる部分もあり、震え上がるような思いでした。ウェビナーの内容を原尻さんが記事にまとめられているのでぜひ!)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?