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【掌編小説】躑躅色の窒息

「印鑑」「山羊」「おもねる」というお題をいただいて書いた三題噺です。

 婚姻届は山羊が食べてしまったよと告げると、そうですかとつつじさんはいつものようにピンクのほっぺをくしゃっとして笑った。それならそれで構わないのですとでもいうような慈愛に満ちた彼の様子にわたしは少し心を痛めながら、机の上のボールペンと印鑑と朱肉を片付けた。わたしの空想上に存在する山羊は印鑑を押した赤い部分が特に美味しかったらしく丁寧に舌の上で転がすようにして味わっていた。むしゃむしゃとリズミカルに噛みながら、ときおり敏感そうに耳を動かして。結婚したら苗字が変わるからと下の名前だけで、さらには夫のものよりも大きくならないようにと小ぶりに作られた印鑑を押した婚姻届を、それでもわたしは役所の窓口に出すことができなかった。
 今回婚姻届を記入してみてわかったのだが、つつじさんはわたしよりちょうど二十五歳上の昭和四十二年生まれだった。頬がつやつやしていて若々しい一方で、服装はいたってフォーマルであるため、ちょっと年齢不詳なところのあったつつじさんの実際の年齢を知ってわたしはなぜか驚いてしまった。昭和四十二年生まれということは、青春時代はバブル真っ只中だったはずである。わたしは試しに空想上のバブリーな雰囲気の背景(ブランド物に身を包んだロングヘアの女性や大音量の音楽のかかった赤い壁のディスコなど)につつじさんを乗っけてみて、違和感のあまりに首を何度も横に振った。あまりにも似合わない。でも、たしかに一緒に飲食店なんかに入ると親子だと勘違いされたことは何度かある。あるいは言葉には出さないもののパパ活だと思われていたこともあったかもしれない。そうはいっても、親子でもパパ活でもないなら何なのかといわれると、それはそれで答えに困るのだけれども。
 印鑑と朱肉を引き出しの中に入れると、その上にぽたりと涙が落ちた。つつじさんの辻という苗字だけの印鑑とわたしの撫子という下の名前だけの印鑑を並んで収納してみると、わたしはこの並びの名前になるはずだったのかと不思議な気持ちになった。それは会ったこともない他人の名前のような響きだった。でも、それでよかったはずだったのに。それでもつつじさんとなら結婚してよいはずだったのに。
 ぽんと背中に手を置かれて振り向くと、つつじさんは微笑んだまま背中をぽんぽんとさすった。手のひらから温かさが伝わってくる。こんな風につつじさんが身体に触れてくるのははじめてのことだったので、わたしは戸惑いつつも、ちょっと笑い返した。そうやって目を細めた拍子にまた一滴の涙が頬を伝った。
「山羊が受け取ってくれたならいいんじゃないんですか」
 つつじさんはいつもそうだ。わたしが言った乱暴な嘘もそのまま受け止めてくれる。誰が言ったこともけっして否定しない。そんなのだから、みんなに馬鹿にされてしまうのだ。わたしたちの職場の誰もがつつじさんを見下していることを彼自身はけっして気にもかけなかった。
 何年も前からずっと職場の窓際で過ごしている彼のことを新入社員だったわたしに紹介したとき、課長が歯茎まで見せて意地悪くにやにやと笑っていたのを覚えている。辻つつじという不思議な名前さえひどく下卑た様子で発音した。そんなときでも、彼は課長におもねることもなく無邪気に笑っているだけだった。この季節になるとわたしたちが住んでいる(というよりもわたしが一方的に転がり込んだ)賃貸マンションの前の花壇いっぱいにあっけらかんと咲く躑躅の花のように。
 わたしはといえば、みんなのように彼を馬鹿にすることはできない。むしろどういうわけかそんな彼を前にすると、ひどく傷ついたような気持ちになってしまう。自分の汚れみたいなものをまざまざと見せつけられたような気になるのだ。そして、こんな風に傷つくことにはなんだか中毒性のようなものがあるようで、それが癖になってしまったから彼と一緒にいるのかもしれなかった。でも、だからこそ彼と結婚することはできなかった。結婚することでわたしは自分が永久に傷つき続けるのが怖かったのだ。
「ううん、わたしのせいなんです。本当はわたしがびりびりに破って駅のゴミ箱に捨ててしまったの」
 つつじさんはそうですかと微笑むばかりだ。わたしが婚姻届を破ってしまった理由すら聞こうとしない。思わず自分の首を締めたくなるような笑顔で。わたしは結婚しなければならなかったのに。つつじさんだってそうだ。みんな結婚しないと幸せになれないはずだったのに。周囲は猫も杓子も結婚していくのに。彼氏いない歴=年齢のわたしが一発逆転で幸せになる方法は他にないのに。一体、つつじさんのような人とすら結婚できないなら、わたしの将来はどうなるんだろう。もちろん、そんな風に都合よくつつじさんを扱ってしまうわたしは、やっぱり汚れた人間なのだろうけれども。
「でもこれからもわたしたち一緒にいましょうね。それができるなら、わたしは十分です」
「いいんですか? あなたはそれで本当にいいの?」
「ええ、婚姻届が出せなくても、地獄くらいまでは一緒に行けますよ」
 思わず彼の肩に頭をぶつけるようにすると、涙が彼のシャツに暗い染みを作った。彼はそのままわたしの背中を遠慮がちにさすっているだけだ。その遠慮すらもわたしを傷つける。また彼に負けてしまったようだ。まるで口の中いっぱいに躑躅の花を詰め込まれたみたいに苦しい。花蜜と敗北の甘さにわたしは嗚咽をあげ続けた。


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