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【掌編小説】五月の弔歌

「蜂の巣」「黒」「油」というお題をいただいて書いた三題噺です。

 ふいに一片の氷にふれてしまったような高い単音が何度も静かに響き、さらにだんだんと研ぎ澄まされるように透明度を増していく。その音が完成したら、次の音に進んでまた執拗に繰り返し鳴らしていく。そのピアノの音色にはメロディがあるわけでもないが、そうかといって不協和音を奏でるわけでもない。どちらかというと一本の樹を彫り刻むの工程のようにそれは聞こえた。
 そんな馴染み深い調律の響きに誘われて、早苗はなんとなく久しぶりに放課後の音楽室の扉を開けた。グランドピアノの艷やかな黒の向こうには、使いこんだエプロンを付けた人影が忙しく動いていた。初夏の湿気とともに、辺りを漂っている油のような独特の匂いも懐かしい。
 じっと早苗がそこに立ったまま様子を眺めていると、やがて調律作業が終わったのか、それとも飽きてしまったのか、次第にその透明な音色はメロディを形作りはじめた。これは何番だったろうか、たぶんフォーレの夜想曲のどれか。調律師はだんだんと興に乗ってきたのか、左手の和音も合わせてこの曲を奏ではじめた。このひとが演奏すると、この曲はどこか真夜中というよりは静かな夜明け前を感じさせると彼女は思った。眩しい西日に照らされたグランドピアノの黒にもそんな夜明け前の空のような光が差していた。そう、このピアノにはこんな演奏がぴったりかもしれない。家にあるヤマハのアップライトよりも、響きやタッチがずっと柔和なこのピアノを彼女もかつてかなり気に入って弾いたものだった。やがて西の空に夜が消えていくように最後の音が奏でられると、早苗はそっと部屋を出ていこうとした。調律師に声を掛けられたのはそんなときだった。
「待って」低く柔らかな声だった。
 早苗が扉に手をかけたまま振り返ると、ピアノの屋根の隙間から調律師が顔を覗かせていた。実際の年齢はかなり上なのかもしれないが、長い髪を一束に引っ詰めて化性気もないその顔はほとんど彼女と同年代くらいにすら見えた。
「あなた、さっきの聴いてたでしょ」
「まあ、ええ」
 なんとなくきまりが悪くなったときの癖で、早苗はそっぽを向いたままひどくぶっきらぼうに答えた。
「どうだった?」
「どうって……」
 彼女が少し戸惑っていると、調律師の方もいやごめんねとややきまりが悪そうな顔をした。
「最近ね、誰かに聴かせることがほとんどないから、ついつい訊いてみちゃったの」
 早苗は少しの間考えて、それから夜明け前とだけ小さく呟いた。調律師がきょとんとした顔をするので、彼女は付け加えた。
「この曲のアルペジオって、もっときらきら弾くひとが多い気がしていて、でもあなたの演奏は夜明け前のかすかな暁光みたいだった」
「よかった。調律も演奏もそれなりにうまくいったみたいね。ありがとう」
 調律師はわずかに八重歯を見せてちょっと微笑んだ。そして、専用のクロス布を取り出して、鍵盤を優しく撫でるように拭きはじめた。早苗はそのまま立ち去ろうとして、それでも心のなかで何かが引っかかって、扉の傍に立ったままでいた。
「あの」自分でも何を言いたいのかわからないまま、彼女は話しだした。「あなたも昔はピアニストを目指していたんですか?」
 調律師は顔を上げてどこか皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「どうしてそう思ったの?」
「あ、いや……」
 早苗は頭のなかがうまくまとまらなくて、そのまま黙りこんでしまった。
「あなたが、ピアニストになりたいの?」
 調律師はちょっと面白がるようにして、今度は愉しげなきらきらした分散和音を片手で鳴らした。早苗は否定することもできずに俯いたままだった。
「調律師がみんなピアニストを目指していてなれなかった人ってわけじゃないよ」
「ごめんなさい、なんだか失礼なことを言ってしまったかも」
「ううん、ちっとも。でも、それならいまこのピアノ弾いてみてよ」
 早苗は首を振った。
「もうピアノ辞めちゃったんです。去年、右の小指の靭帯を切っちゃって」
「それから、全然弾いてないの?」
「はい」
 去年の事故のあとの蜂の巣をつついたような周囲の大騒ぎは早苗にとって他人事のように感じられたし、やはりいまでもそうだった。もうピアニストにはなれないということは絶望的な事実というよりも、どういうわけか自分を守る安全な繭のようにすら思われた。
 窓の外から吹奏楽部の練習の音が遠く響いて、それに合わせて調律師は緩やかにハーモニーを奏ではじめた。
「あなたはピアノを弾きたいの? それともピアノでお金を稼ぎたいの? 大きなお世話かもしれないけど、ピアノを弾きたいなら、小指が使えなくても弾けるじゃない。まあプロのピアニストにはなれないかもしれないけどね」
「そういう単純な問題じゃないんです」
 早苗はかっとなって叫んだ。
「じゃあ、何なの?」
 低くなってきた西日が、調律師の顔に深い陰影を差していた。
「あなた、もしかして怖いの? ピアノに向き合うのが怖い?」
 その言葉を聞いた瞬間、彼女は自分の身体のなかを何か得体のしれないものが巡るように感じた。違うという一言を飲みこんで、早苗は音楽室を飛び出した。どこに向かって走っているのか自分でもわからなかった。気がつくと裏山の小道をにいて、どこまでも続く溢れるほどの若葉の緑に溺れるようだった。それでも、ピアノという存在からできるだけ遠く離れたかった。五月の陽射しのなかで、こぼれる水滴が汗なのか涙なのかわからない。
 音楽室に残された調律師はひとり溜息をついて、ピアノの蓋をそっと閉じた。
「わたしだって、怖いよ」

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