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【掌編小説】シルバー

『都合の良いマイノリティにならないためのZINE be』(2023年11月11日発刊)に寄稿した掌編小説の再録です。
※軽微な性描写がありますので苦手な方はご注意ください

 目の前の手すりに載せられた白い指先がかすかに宙でピアノを弾くような動きをして、やっとそれが沙羅だと気がついた。その左の薬指には、わたしの結婚指輪とそっくりのシルバーリングが光っていた。そんな指遊びの癖も、ボブカットの髪から覗く柔らかな耳たぶも、ちょっと退屈したように首をかしげる仕草も、ずっと忘れていたはずの彼女の輪郭がどんどん像を結んでいくのが怖くてわたしはそこから動けなかった。そうして彼女はエスカレーターの数段上にじっと立ったまましばらくわたしの心臓を凍らせておいて、ふいにしびれを切らしたようにすたすたと歩いて2階のロビーに上がっていった。
 今日の同窓会に沙羅が来ることは、予想できないことでもなかった。たしかに気まぐれで数年に1回東京でも開催される飲み会にずっと彼女は来なかったけれども、それは幹事役の同級生がたまたま彼女のLINEの連絡先を知らずにグループチャットに入れられなかったからかもしれなかった。ガラケーを使って大学までの学生生活を送った最後の世代では、そんなことはよくあることだ。わたしだって、彼女がきっともう使っていないだろう携帯キャリアのメールアドレスしか知らない。それでも、たぶん誰かが今日のことを彼女に連絡をしたのだろう。
 いっそもう帰ってしまおうかと迷っているうちに、エスカレーターにロビーまで運ばれてしまっていた。
「久しぶり。高原さん、だよね?」
 受付係の山本に声をかけられて、慌ててわたしは返事をした。
「あ、はい。久しぶり。山本、変わらないね」
 山本は顔を高校時代と同じように顔をくしゃくしゃにして苦笑した。
「嘘やろ。俺、20キロ太ったのに」
「そうなの? 笑い方とか全然変わってないよ」
 それを聞いて、隣で一緒に受付をしている笹川がにやにやしながら山本を軽く小突くのを目の端に入れながら、わたしは会場の入り口でウェルカムドリンクのスパークリングワインを受け取っていた。なんとなく帰るタイミングは逃してしまったし、広い会場を見渡しても彼女の姿はすぐに見つからなかった。
 中高の6年間をともに過ごした顔ぶれが、あちこちから笑いかけたり手を振ったりしてくれる。40歳の節目を迎えたいまでも、誰もがどこかしら当時の面影を残していた。どのテーブルの輪に入ろうかとぼんやり眺めていると、ふいにこんなパーティや飲み会の場をこっそり抜け出してばかりいた頃のことが思い出された。
 高校最後の文化祭の打ち上げでも、一緒に上京して入学した大学の新歓コンパでも、すぐに退屈してわたしを連れ出したがったのは沙羅だった。化学室のある別棟の最上階から校舎の屋上はちょっとしたスリルを味わえば渡れる距離だということを、別の友達に誘われて文化祭の出し物を手伝いにきただけのわたしは知らなかったから、彼女がひょいと渡ってみて「来ないの?」とでもいうような顔をこちらに向けたときは呆れたものだ。それでも彼女の手を借りながら片足を向こう側に掛けると、まだ打ち上げをやっている化学室からどっと笑い声が聞こえて、わたしはびくりとした。彼女はやや不揃いな歯をちらりと片側だけ見せて、にっと笑った。わざわざ手ずから深紫色に染めたという彼女の白衣が9月の夕風に揺れていた。
「いま、ちょっとビビった?」
「そんなわけないでしょ」
 悔し紛れにぐっともう片方の足を引き寄せて渡りきったとき、彼女が身体をどかさないものだからその腕に飛び込むような形になってしまって、思わずわたしはわっと声を上げた。やっぱチキンじゃん。元バスケ部部長のくせに。うるさいな。うるさいのは、そっちでしょ。そのままわたしたちははじめてのキスをした。次第に陽が落ちていくと、少し肌寒いくらいでどこか物寂しい秋の匂いがした。
「あれ? あの頃、樹里子って彼氏いたっけ?」
 鈴ちゃんからそんな話を振られたときも、わたしはまだそんな過去の匂いのなかにいた。
「いや、別に……」
「何言ってるの。樹里子はずっとバスケ一筋の高嶺の花枠だったじゃん」
「まあそうだけど、実はってことがあるかもよ。もう40なんだから、いまなら言えるかも。もしかして、ほら、吉田とか仲良くなかった?」
 そうやって同級生ににやにやしながら畳み掛けられるのは、卒業以来何度目だろうか。
「そんなみんなが期待するような話は何もないよ」
「えーっ」不満げに綾音は口を尖らせた。「でも、いまの旦那には大学でもう出会ってたんでしょ」
「えっ、もしかして、初彼と結婚したってこと?」
「まあ、そうね。そう言われればそういうことかも」
「あらー、素敵! 本当そういうのが、理想だよね」
 そうかなと受け流しながら、テーブルから皿を取り上げてサーモンのカルパッチョをつまんだ。近頃では同世代との会話の鉄板になりつつある育児に自然と話題は移っていった。
 夫の慎司はわたしが子どもを作りたがらないことをよく理解してくれていると思う。彼自身も子どもって何考えてるかわかんなくて怖いよねと昔から言っているくらいで、彼の両親から不妊治療を繰り返し仄めかされたときも、いつもの飄々とした様子でのらりくらり受け答えをしていた。
「あなたもしかしてLGBTなんじゃないの、なんて勘ぐられてさ」帰省先から帰ってきた彼は苦笑しながら言った。「たぶん最近そんな言葉を覚えたんだろうね。近頃はホモって言っちゃいけないんでしょ、でもそうだったら樹里子さんかわいそうだから、だってさ」
 わたしの表情を見て、彼は急いで付け加えた。
「いや、あなたが挿れるとかそういうことをしたくないのは全然いいんだよ。挿れなくったって、僕らは夜のことも結構楽しくやってるじゃん」
 義両親は彼を疑うなら、きっとわたしのことも疑っているのかもしれなかった。けれど、もし仮にあなたはLGBTなのかと尋ねられたとしても、わたしはどこにも答えを持っていない。あるいは当てはまるとしたら、「B」が一番近いのだろうか。でも、わたしに同性の恋人がいたのは、もう20年も前のたった一度きりのことだったし、よくいわれる思春期の一過性の何かだったのかもしれない。いずれにせよ、自分にバイセクシュアルを名乗る資格があるとも思えなかった。一方、だからといって、自分がいわゆるストレートかと訊かれると、そう言い切ることもできないかもしれない。わたしは何よりも挿入が苦手だった。沙羅のすらりとした指先を挿れられることすらあまり好きではなかったのに、あんな肥大化した臓物みたいな男性器を挿れられるなんて想像するのも恐ろしかった。そんなわたしを何も言わずにあっさりと受け入れてくれる男性はきっとこの世界のなかで彼だけだろう。
「樹里子は樹里子だよ。男が好きとか、女が好きとか、そんなこと気にしなくていい」
 いつか慎司はそんなことを言っていた。いつも彼のことを考えると、沙羅のときのような甘やかな気持ちにはならないけれども、遠い長旅からやっと我が家に帰ったような温かい気持ちになった。
「それで、あの子ったら迷子センターで名前訊かれて『さきです。よんさいです』って、訊かれてもないのに歳まで答えたんですって。それでね……」「へえ、おしゃまさんなのね。かわいい」
 広い会場のなかに集まった1学年分の人の渦は、水面の波紋のように形を変えつづけていた。テーブルの周りに集まっては少しずつ入れ替わっていく人の群れのなかで、わたしは気がつけばずっと目の端で沙羅を探していた。けっして顔を合わせて言葉を交わすことはしたくなかったけれども、あわよくば一目その姿を目にしたい自分に気がついて心底呆れた。
 そして、ふいに手元のテーブルにワイングラスを置く薄い影を感じたときから、すべての音が遠ざかるようだった。えっ、篠山さん久しぶり。もしかして卒業式以来とかじゃない? ほんとほんと、全然同窓会も来たことなかったよね。そうかもね、忙しくてさ。とにかく、久しぶり。同級生たちのくぐもった声に囲まれて、ひとりわたしだけが春の俄か雨に閉ざされているようだった。
「樹里子」耳馴れた少し低い声がわたしの名前を呼ぶ。「久しぶり」
「うん、久しぶり」
 沙羅はにっと笑ってわたしをまっすぐに見ていた。最後に会った時よりも少しふっくらして、ほとんど化粧もしておらず、かえって出会ったばかりの高校生の頃のようだった。
「あれ? ふたりすごく仲良かったのに、全然会ってなかったの?」美咲は意外そうに言った。
「まあね」
「20年ぶりくらい、かな」
「19年だよ、最後に会ってから」わたしは思わず言った。
「さすが。相変わらずの記憶力」
 昔と変わらないやりとりにお互い苦笑していると、ひょっとしたらあの頃みたいにまた話せるかもしれないという淡い期待が感じられた。
 彼女と最後に会ったときのことはもう思い出したくもない。デニーズでありがちな別れ話をして、そのあと2時間くらいわたしが泣くのを彼女がじっと眺めて、それで終わりだ。そして、まるでそれが何かの復讐になるかのようにして、慎司と付き合いはじめたのはその2ヶ月ほどあとのことだった。
「そういえば、篠山さんも結婚したんだね。めでたい、めでたい。」美咲が沙羅の左手の薬指を見て、感慨深げに言った。「篠山さんっていかにも男に興味ない感じの秀才だったのにね。果たして、篠山さんを射止めたのはどんな男だったのでしょうか?」
 沙羅は苦笑いを浮かべて言った。
「この指輪はまだペアリングだよ。結婚したいんだけど法律上できないから、いま国を訴えて裁判やってるの」 
「法律上できないなんてことあるの? 相手はどこかの外国人とか?」木村が口を挟む。
「ううん、相手も国籍は日本。日本人の女性」
 美咲は笑いかけたまま固まってしまったような不思議な表情を浮かべていた。
「ああ、同性婚訴訟ってやつ? なんかニュースで見た気がする」
「ああ、あれね。知ってる」
 わたしは同性婚法制化を目指す団体の「活動家」たちがレインボーフラッグを堂々と掲げて闊歩している様子をテレビで見たのを思い出した。違憲判決という横断幕のもとに誇らしげに笑うゲイカップルを見て、一生わたしはそんな風に笑えないと思ったことをはっきりと覚えていている。レインボーフラッグは、わたしにとってあまりにも眩しいものだった。いつもその6色のなかに、わたしはわたしの色を見つけることができなかった。その明るい6色ははっきりとわたしに告げているようだった、おまえはどっちつかずの偽物で裏切り者だ、と。そして、いま目の前で沙羅はあの「活動家」たちと全く同じように、誇らしげな笑みを浮かべて立っていた。
「でもさー」木村は理解しかねるといった風に首を傾げながら言った。「LGBTの人たちって、なんでそこまでして結婚したいのかわかんないよね。結婚なんてさ、紙切れ1枚のことだし、大したことじゃないよ」
「そう。本当にそうだよね」わたしは思わず何かを吐き出すようにして言った。「LGBTなんて言葉がなければみんな自由になるのに」
 このフレーズはどこかで聞いたことがあるという気もして、もしかしたらそれは慎司がいつかふと呟いた言葉だったかもしれなかった。
「そう」沙羅はわたしの目をまっすぐ見たまま、小さく呟いた。「あんたはやっぱりあの頃とちっとも変わってない」
 ちっとも変わらない、裏切り者だ。そうだ。わたしはいつだって、裏切り者だった。驟雨がすべてを覆っていく。

 樹木から滴り落ちる雨粒を頬で受けとめたとき、わたしは白く光るスマートフォンの画面をじっと眺めていた。真夜中の公園はほとんど空っぽで、すぐ傍の池の水面がまだらな雨粒に波紋を広げていたり、向こうの暗がりのベンチでカップルらしき人影がときどき蠢いたりする気配が感じられるだけだった。
 古い連絡先リストのなかの篠山沙羅という名前に触れると、すぐに懐かしいメールアドレスが現れ、メールの作成画面までは問題なく立ち上がった。
 一生、男の方にだけは行かないで、と彼女は言った。あんたは男もいけるんでしょ、知ってるんだから。それはほとんど呪いのようにわたしに響き渡った。いまでもそれは響きつづけている。あんたのせいだ、とわたしは思った。何もかも、あんたのせいなのに。
 「今日は会えてよかった」と書いて消し、それから「さっきはごめん」と書いて消した。何度も書いては消してやっと送信したメールには、宛先不明のエラーだけが返ってきて、わたしは少しだけほっとした。いよいよ本降りに近くなってきた雨に画面が濡れて、エラー表示はひどく滲んで見えた。
 スマートフォンに添えられた左手の薬指には、彼女のものとほとんど同じようなシルバーリングが光っている。わたしはその指輪を外して少しの間眺めた。何年も嵌め続けた指輪は指にわずかな痕を残しながらもあっけなく外れて、冷たい水の波紋のように街灯の光を照り返していた。
 池の水面にも、同じような波紋がいくつも生まれては消えていった。わたしはベンチから立ち上がり、水際の低い柵にもたれかかるようにしてしゃがみこんでそれを見た。柔らかな雨のなかで草むらからどこかむっとした匂いがして、わたしは息が詰まりそうだった。水面の波紋に合わせて、指輪をかざしてみる。それはその生々しい草の匂いを中和するような冷たさで波紋に馴染んで見えた。顔を伝う雨粒を拭いもしないでいると鼻腔にまで入ってきて、急に泣きたいような気がしたけれど、涙なんて出なかった。泣くにしたって、わたしは一体何に泣けばいいのだろうか。
 わたしはその指輪が似合うようにそっと水面に置いてみた。どういうわけか、きっとそれは波紋の上にしばらく浮かぶような気がしていた。けれども、すぐにそのシルバーは自らの重みでゆっくりと池の底に沈んでいった。あるいは、まるで何かの祈りのように。

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