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ちょいちょい書くかもしれない日記(母の日)

つい先日、東京で人混みを幾度も経験してしまったので、母の日に施設を訪問することは遠慮した。
コロナ禍が始まって以来、母がお世話になっている施設は、スタッフと入居者を守るべく、たいへんな努力とご苦労をしてこられたことと思う。
入居者の身内として、病原菌を持ち込みがちなアクションは控えねば、と強く感じているので、親不孝は許されたい。

去年まで、母の日には母の大好物のちらし寿司を作り、苺のショートケーキを買い、だいたいパジャマか、カジュアルな衣服をプレゼントしてきた。
母は勿体ないとなかなかパジャマをおろしてくれず、結局、施設に新品のままの何着かを持ち込むこととなった。
一応、母があちらで着るものは把握しているので、パジャマはしばらく不要だと思われる。
衣類も、ずっと建物の中にいるのだから、夏だからといって薄着をするわけではなかろう。
プレゼントが、正直、思い浮かばない。
何をあげてもそれなりに喜んでくれるだろうが、その実、本当に喜んでいるかどうかはわからない。
認知症の患者とて、気遣いはするのだ。
というか、そもそも、面会に行って最初に部屋に入ったとき、母が私を認識しているかどうかが、最近ではたいへん疑わしい。
話しているうちに何となくピントが合ってくるようだが、もはや顔では見分けがつかないのだな……と少し悲しくなっていた。
先日、「認知症世界の歩き方」という本を、実家から持ち出した荷物の中に見つけた。
皮肉なことに、それは昨年、それこそ倒れる数ヶ月前に、母自身が私に買ってくれと頼んできた本であることを思い出した。
何故そんな本をと訊ねると、「お父さんはきっと認知症だと思うから、理解してあげたくて」と言っていた。
なんだかなあ、である。
本当にそう思っていたのか、あるいは自分自身に違和感を覚えて、認知症を疑っていたのか。今となってはわからない。
読んだ形跡はなかった。
パラパラと流し読みしていたら、認知症の人は、人の顔がみんな同じ仮面のように見えてしまって、相手のことをちゃんと覚えていても、顔だけでは認識しづらくなるのだ……というような記載があった。
ああ、これかとリアルに理解できた。
母のプライドを傷つけないように、何げなく名前を言って、近況をしばらく一方的に話すのは、まあまあ正解だったのかもしれない。
そういえば、高齢者施設に勤務している両親共通のお友達は、毎度、会った瞬間に名乗る。
いやわかってますって、とこれまでずっと不思議に思っていたが、そういうことか。
この本、今の母を理解する一助になるだろうか。手が空いているときに、少しずつ読もうと思っている。
弟は精神科医だから、訊けば「ああそれはなー」とたちどころに反応するのだが、私はクライアントではないので、懇切丁寧な解説は望めない。
やはり自分である程度学んでから、答え合わせのつもりで質問というのが建設的だろうと思う。
一般向けの本は、学びのざっくりしたベクトルを定めるのにちょうどいい。
比較的新しいものを、複数読む用心深さは必要だけれど。

こんなご時世なのでお気遣いなく、気楽に楽しんでいってください。でも、もしいただけてしまった場合は、猫と私のおやつが増えます。