「泣くほど必死でやったものでないと、あなたの人生に必要なものにはならないよ」
小さい頃、母は私によく言っていた。
「泣くほど必死でやったものでないと、あなたの人生に必要なものにはならないよ」
何かを決める時、私はよくこの言葉を思い出す。
私は不器用で一度で何かできるということはほぼなく、何度も何度もチャレンジしてようやく人並みにできるような
まあ、鈍くさい子供だった。
幼稚園の頃に通い始めたスイミングスクールでは5メートル泳ぐのに1年かかり、進級したときはコーチたちに拍手された。
その時はうれしくて誇らしく思っていたけど
「よくもまあ、1年も泳げないのにあきらめなかったもんだ。」という呆れと感嘆もあった拍手だったんではないだろうか。
そのあとはそこまで手こずることはなく、そこそこスイスイといった感じで進級を続け、なんだかんだと6年くらいそのスイミングスクールに通った。
進路を決めるときもそうだった。
文系科目しか得意でない、根っからの文系のくせに
数学の補修授業の常連であったくせに
園芸や農業への興味から進路を理系コース希望で提出した。
先生たちから連日呼び出され、考え直すように何度も説得されたが結局、進路変更はしなかった。
受験し、なんとか合格した短期大学で園芸や農業を学んで現在は小規模ながら就農している。
たぶん私はものすごくあきらめの悪い性格なのだ。
だけど「自分の選択を後悔しない」なんてことはなくむしろ後悔ばかりしていた。
後ろを振り返ってみれば、選んだものよりも選ばなかったもののほうがひどく輝いて見えて
うまくいかないことにうんざりして「あの時、あちらを選択していれば…」なんてよく考えてしまう。
でも後悔したって現実は変わらない。
必死で足搔いて、泣いて愚痴って、少しずつ前に進むことを続けてきたように思う。
後悔のない「選択」は多分、ない。
後悔のない「選択」にしようと人は必死に足搔くのではないだろうか。
昨年の10月に飼っていた猫が1匹、亡くなった。
動物病院の先生たちが必死の救命措置を行ってくれていたが功を奏さず、いよいよとなった時にどうしたいか尋ねられた。
泣きたかった。
どんなことをしてもいい、どうかこの仔を助けてくださいと叫んで縋りつきたかった。
でもその瞬間、この仔との思い出がばーっと頭の中に浮かんでくる。
しっかりものの長男猫。
だけど甘えん坊でくっつき虫。
ご飯を食べるときも、寝るときもそばにぴったりくっついてきて
幸せそうに「にゃー」と鳴いていた。
「最期はそばにいてあげたいです。身体をずっと撫でて、安心して逝ってほしい」
そう、お願いした。
しっかり私がいることを確認したあの仔は苦しそうに息を吐いていたけど次第に吐息がか細くなり、最期は眠るようにそっと亡くなった。
心臓が止まった瞬間、ピーっと細長く鳴り響く呼吸器の電子音がまるで遠くから聞こえているようで現実感がなかった。
だってさっきまで生きていたのに。
覚悟はしていたはずなのに、理解ができず声が出せなかった。
動物病院の先生が「助けてあげられなくてごめんね…」とつぶやいた。
この仔が小さいころから何年もずっと診てくれていた動物病院の先生とスタッフさん。
この仔が亡くなったことを悲しんでくれる人が家族以外でもいることに救われたような気持ちになった。
帰りの車の中で涙がこぼれて嗚咽がでそうになり、必死に口を引き結んだ。
この仔は私が泣くといつも心配そうな顔をしていた。
だから私が泣いたら心配してしまうのでないか、なんて考えて1年経とうとしてる今もまだ思う存分泣けないでいる。
後悔のない「選択」ができたことはない。
でも必死で考え抜いて、覚悟を決めて選んだことだから
私の人生に必要なものだったと信じて今日も生きている。
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