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明日はやさしくなれますように、と願っている。


6~7年ほど前に父の付き添いで訪れた病院で高齢の親にひどく怒鳴っている人を見た。
理由はわからなかったけど、その人が「どうしてわかってくれないの、お父さん!」と叫んでいたことで家族であることはなんとなく伺えた。

「なんであんなに怒るんだろう…もうちょっとやさしく接してあげればいいのに」

その時の私はそんな風に余裕がなく怒るその人を少し非難めいた気持ちで眺めていた。

そう、これはまだ私の父親が認知症になる前の話。



約2年前に父親が転倒し大けがをした。
コロナ禍で入院するのが難しく、毎日病院に通い、治療を受け、その後リハビリを得て杖にて歩行できるまでにはなんとか回復したのだけど

その数か月後、父は「お金が盗られた!」「警察を呼べ!」と騒ぎ出すようになった。物盗られ妄想だった。

もともと物忘れがひどかったので心配で何回か認知症外来などに行ってみたらどうかと話してはいたのだけど

本人が頑として「自分は年をとって少しボケてきているだけで認知症ではない!」と拒否していたので受診することができないでいた。

医師からは問診や認知機能テストの結果、またCTにて脳の萎縮が見られることから
アルツハイマー型認知症だろうといわれた。

「残念ながら、認知症は徐々に症状が進行していく進行性の病気なので
治療によって、進行を緩やかにすることが大切です」

そう医師から説明を聞きながら「これから父はどうなっていくんだろう」と不安な気持ちでいっぱいになった。

父が認知症ではないかと疑い始めてから本を読んだり、ネットで調べたり、知人に話を聞いたりしてはいたのだけど
それを現実のものと受け止めることはむずかしかった。


父の認知症進行と共に生活や病院への付き添いにいろいろなトラブルがでてくる。

主だった症状としては徘徊と失禁。 

とくに待合室ではおとなしく待てず、歩き回るので困っている。

きれいな女性の看護師さんのいうことばかり聞いて、娘の話はすぐ忘れるところにも困っている。
ものすごーく複雑な気持ちになるんだが。

最近思うことはたくさんのひとのやさしさの支えられて父の介護は成り立っているということ。

医師の先生、看護師さん、ケアマネージャーさん、デイサービスの皆さん、家族に近所の人はもちろん、「話を聞くことしかできないけど」といいながら時間を作って私の愚痴を聞いてくれる知人、友人には本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。
いつもありがとう。

あなたたちが私に気持ちを吐き出させてくれるから
「なんでやねん!」と父親の頭をはたかずに済んでいるのです…!!


介護は孤独だ。自分から声をあげていかないと誰にも気づかれない。

声をあげるのは不安だ。

迷惑になったらどうしようとか、こんなこといったらひどい娘だと思われるんじゃないかとかつい考えてしまう。

でも声をあげ続けていけばだれかしらが助けてくれることも知った。

傷つくことをいわれることだってある。どうしようもない現実とわかってもらえない孤独に打ちのめされることもある。

でもそんな日々の中でたくさんもらったやさしさがどうにもならない気持ちをやんわりとなぐさめてくれるので私は今日も生きていける。


病院から帰ってきて5分もしないうちに父親がおなかが空いたと騒ぎ出した。

帰りに買ったのは父の好物・いなり寿司。
食卓に並べながらふと考える。


昔、私が非難の気持ちを抱いてしまったあの人も同じように親の好きなものを作ったり、買ったりして食べさせてあげていたんではないだろうか。

私は何もわかってなかった。 
きっと心配してたから怒っていたんだ。心がすり減るんだ。

私があの人の気持ちを思いいたれなかっただけで
他人の目に見えないところでもちゃんとやさしい気持ちは存在していたのではないだろうか。

また失敗して心配のあまり怒ってしまうかもしれない。

でも明日はやさしくなれますようにといつも願っている。

#やさしさに救われて


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