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「普通とかない」は間違いです

「普通はさぁ〜」といった言い回しが好きでない。

体感として帰国してから東京で出会った人たちよりも、海外で出会った日本人の方が多く用いていた印象がある。その言葉に内包されているのは自分の思う普通の押し付けと他者の価値観の否定。異国に来てその考え方はナンセンスだろうと強く憤りを感じた。

そんな「普通はさぁ〜」に対して自分が心の中で、時には口に出して言ってたのが、

「普通とかないから」

しかし、これは大きなウソである。


海外生活中のこと、サウジアラビア人の友だちとバーガー屋の前で待ち合わせをしていたことがある。彼は約束の時間に20分遅れてきたが、ケロッとしていた。

「え、1時集合って言ったよね?」

「うん、だから今1時20分じゃん」

これが中東特有のザ・時間にルーズスタイルかと身を持って知ったのはこの時だった。ネットの情報である程度知っていたものの半ば都市伝説だとも思っていたため、実際にカマされると少し驚いたものである。

時間通り(5分10分のズレは許容範囲)に到着するのが、僕にとっての普通。

20分の遅れを遅刻とせず、1時集合の範疇に含めるのが彼にとっての普通。

「普通がない」のではない。皆誰しも普通をもっている。その「普通」が個々人で違うだけ。もしも本当に「普通」が存在しなければ、カオス混沌で溢れ返って皆何かを傷つけなくては落ち着かなくなるだろう。「普通」とは、心地よさに通ずるところがある。


「異なった価値観に寛容であれ」というのは自分にとってモットーとも呼べるものの一つで、個性的な人たちと多く関わることでその考えはより確固たるものになっていった。そのため、場合によっては他者の価値観を一蹴しうる「普通は」を過剰に嫌っているところがあるのだろう。

ただ「普通」という言葉もコンテクストによって様々な意味をもつ。多様性を否定する嫌な「普通」もあれば、どこまでも透き通ってキラキラした「普通」だってある。言葉自体に過敏に反応して忌み嫌うことはないだろう。相手がどういう意図でそれを発しているかをきちんと噛みしめる必要がある。

そしてそもそも、「普通なんてない」なんていうのは、言葉として、表現として間違いなく間違っている。正確な表現でなくともニュアンスが伝わればいっかなぁ〜くらいのノリで言葉を放っているところが少なからずあるのだろう。そういった横柄な考えで会話をしていると、大きな誤解を招いたり、意図せずとも人を傷つけてしまいうる。スピーディーなコミュニケーションを求めるあまりその辺が蔑ろになってはいけない。言葉は核より強い。


などなどといったことを考えたり。これも上手く伝えられているんだろうか。




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