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私の常識は他人の非常識かもしれないの話

常識とは一般の社会人が共有していて当然の知識やルールといった定義がおそらく違和感のない考え方かと思います。
ところがこの「常識についての常識」本当にそうでしょうか?
閉鎖的は世界や業界等で遣われる○○の常識は世間の非常識という言葉があります。あるいはこの常識を言うのは時代や世代という時間軸でも変わっていくものです。それではいったい私たちは「常識」という言葉をどう使っているのでしょうか?この言葉は「自分の常識」と「他人の常識」の間にギャップがある場合に用いられることがわかります。
私たちが「常識」という言葉を使う時には「暗黙裏に当然と思ってる自分の価値観」をあたかも世の中の正義であるかのように正当化したい場合である、ことがわかります

やわらかい頭の作り方    細谷 功

あの人は常識がない、非常識だという時は自分の中の常識をズレている時に使っている。でも私の常識は他人の非常識かもしれない。全てはその人の価値観によるものとなる。価値観の違う人とはどう頑張っても一致することはできないし、わかりあうことも難しい。「自分が合わせるか」「自分に合わせるか」しかないらしい。
(ローランドの名言みたいになってる。)
わかり合えない人にあったらこう思うと少しは楽になるのかもしれない、だってわかりあることは不可能だから諦めよう。ってなるから。

時代によって常識は変わる。30年前の常識は今の非常識に過ぎない。お局さんの昔はこうだったのよ、当たり前だったのよ、っていう話、今では非常識極まりない。いつの時代やねんって思ってしまう。今は違うってなんでわからへんのかな。アップデートしなはれ。いつまで昔に執着してるんや。これも自分の常識と私たちの常識がズレてるから言ってるんやろうな。そらコミュニケーションもズレていくわ。

狭い業界での常識は非常識も確かにそう。誰もこれ非常識ですよって声をあげることもない。なぜなら内部の人たちは当たり前だから。外部から見たひとにしかわからない。ずっとせまい内部で見てる人たちの常識ほど怖いものもないし、きっと発展することもないのでないかな。常識を疑えっていう言葉はできそうでできない。当たり前のことを疑うって結構難しい。人は変化を嫌う。でも疑って改善、変更すればやりやすくなたり、働きやすくなるかもしれない。

常識にとらわれず、常にアップデートしていきたいですね。新しい価値観や考え方を知るってめっちゃ大切なことやと思う。今の常識、当たり前じゃない。

どうせ過ごすなら楽しい方がいい◡̎⃝
最後まで読んでくれてありがとうございました

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