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"役割"を生きる社会で

日本の学校教育が育むのは「与えられた役割を全うする人間」だ。

「○○学校生として」「上級生として」「伝統ある○○部の部員として」「○○委員として」「生徒として」「教師として」

同じ役割を課された者は、同じ服を着て、同じ髪型をして、同じことを学び、教師の指示に従い同じ行動する。

いつだって個人の名前よりも先に、与えられた役割を意識させられる。その積み重ねが「課される役割は、個人よりも優先すべきである」という認識を生む。

学校を離れても"役割"からは逃れられない。

性別、年齢、職業、妻らしく、母らしく…

みんな、本来の自分を抑圧し"役割"を全うしようとして、ストレスを溜めている。

だから、"役割"をきちんと全うしていないように見える人に対してイライラするし、時にはそれが怒りとなる。

「いい年してみっともない」
「それでも母親なの?」
「男なら○○しろよ」
「店員のくせに生意気だ」

"役割"を全うしない人が悪いんじゃない。だって本当は、人類共通の絶対的な"役割"なんて存在しないんだから。そこに本当に存在しているのは、その人そのもの。それだけだ。

"役割"は誰の目にも見えない服。それを互いにうまく着こなしてるだの、似合ってないだのと言い合っているのと同じだ。

幻の目に見えない"役割"を「全うしなければ」とストレスを溜めている人が、"役割"から自由になっている人を妬んでいるだけなのだ。


役割の代わりに個人名をあてがってみれば、いかにアホらしいことを言っているかわかる。

「鈴木のくせしてみっともない」
「それでも田中なの?」
「高橋なら○○しろよ」
「佐藤のくせに生意気だ」

もしも"役割"から自由だったら、至極どうでもいいことにイラついていることも多いのではないだろうか。


自分の「常識」が通用しない世界で生活してみて感じること。

メキシコでは、排水溝に流れた髪の毛は取り除いて捨てるのではなく、洗剤で溶かすらしい。そもそも排水溝の中身を取り出せないような作りになってるw 世界は広い…!!



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