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『磯田道史と日本史を語ろう』ノート

磯田道史
文春新書

 対談集を編むにあたっては、対談の文字起こしをそのまま収録しても、話が噛み合わなかったり、内容の深まりも不十分なことが多いので、それぞれの対談者に反訳を送り、発言者がそれぞれ手を入れる工程があるのが普通である。中には、対談集と銘打ちながら、往復書簡を対談風にしたり、特定のテーマについてそれぞれ勝手に喋った内容を編集して対談風にしたりというものもある。

『達人たちと探る歴史の秘密』という副題が付いたこの本は、江戸時代を専門とする気鋭の学者の磯田道史が、自分の専門外のテーマも含め、雑誌の編集者や、文化人類学者、日本の中世史や戦国史の研究家、戦後史に詳しい作家・小説家、脳科学者、経営者などそれぞれ一家言を持つその道の大家と語り合った内容をまとめたもので、テーマは幅広い。初出は「文藝春秋」や「週刊文春」、「歴史通」、「Vioce」などで、一番古いもので、2003年の対談が収録されている。

 また対談集は編集すると予定調和的な内容になりがちなのであるが、この対談集は、対談相手の発言を否定したり、訂正したりとなかなか面白い。見解の一致ももちろん多くあるが、それぞれの研究分野の成果からの新しい気づき、そしてそこからの学際的なひろがりが、単なる歴史本を読むよりはるかに面白い。

 いくつか面白かった箇所を例に挙げると、半藤一利との対談〈日本のリーダーを採点する〉の章では、半藤が、「(信長が)長篠の戦いでの鉄砲三段撃ちなども、技術を上手く使った」と言うと、磯田は、「あれはやっていないですね」とにべもなく否定しながらも、一戦場にあれだけの鉄砲を並べ、敵を圧倒したことが重要だと述べる。
 もう一つ挙げると、半藤が、「信玄を中国の王道思想を会得して、その理想に基づいて行動した名将だ」と発言すると、磯田は、「私に言わせると全部逆だ」と否定し、信玄ほど覇道に徹した人はいないと断言する。

 篠田謙一という分子人類学者と齋藤成也という遺伝学者との鼎談〈日本人の不思議な起源〉では、磯田が、「(西暦)900年代から鎌倉時代の初めにかけては、日宋貿易などで、北九州の博多あたりに、大量の中国人がやってきて、一大チャイナタウンを形成します。宗像大社の神主の系図を見たことがありますが、数代続けて中国人の女性を妻に迎えている。また江戸時代の武士の家系を調べて見ると、どうも1%ぐらいは中国・朝鮮系の祖先を持っている。朝鮮出兵した時にお医者さんを連れて来たり、学者を連れて来たりした。その子孫です」といい、齋藤は、「済州島の人のDNAは、日本列島人とほとんど同じです。あそこは倭寇の根城でしたから、そういうことも関係あるのかも知れません」と受ける。
 こう聞くと、〝日本人〟という人種ではなくて、ここに言うように〝日本列島人〟というのが正しい捉え方なのかもしれない。

 作家の中村彰彦との〈「龍馬斬殺」の謎を解く〉というタイトルをみて、普通は「坂本龍馬暗殺」というのにと思いつつ読み進めていくと、〝暗殺〟というのは政府の要人をそれ以外の人間が不当に手をかけたことをいうと書かれていた。
龍馬の場合は、近江屋での襲撃を受ける前に、伏見の寺田屋で伏見奉行所の手のものに短筒を放っており、しかもその時に禁門の変以降、入京を禁じられた長州藩の支藩である長府藩の武士を同道していたのだ。
 近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎を襲撃したのは、京都見廻組という幕府の治安・執行機関が襲ったもの(この対談で磯田は数々の証言や資料を読んだ上でほぼ間違いないとしている)で、「手に余れば討ち取ってよし」と指示を受けていたので、京都見廻組にとっては正当な職務執行であり、暗殺ではなく〝斬殺〟と磯田は述べる。確かに非合法な襲撃ではなかったという意味では、暗殺とは言えないだろう。

 私事だが、一昨年京都に出かけたときに、坂本龍馬が殺された「近江屋跡」まで行ってきた。いまは商店街の大きな通りに面した一角に、「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」という石碑と二人の写真付きの看板が立っている。
 この対談の中で、司馬遼太郎が書いた『龍馬がゆく』や一般的なイメージでは、龍馬が描いた青写真こそが明治維新、新国家建設のグランドデザインだったと思われているが、実際はそうではなかったという中村彰彦の発言があり、かねてよりいだいていた坂本龍馬に対する筆者の捉え方と同じであったことに意を強くした。

 筆者は長崎に縁のある坂本龍馬が好きで、長崎の各所に建っている像や海援隊の跡地などを訪ねたことがあるほどだ。
坂本龍馬は、幕末という大きく揺れ動く時代に、新しい発想と行動力を持っていた傑物ではあるが、ちょっと司馬は買いかぶりすぎではという気がしていたので、合点がいった。

 このほか、〈信長はなぜ時代を変えられたのか?〉という堺屋太一ほか2名との座談会、〈徳川家康を暴く〉という徳川宗家第19代目当主の徳川家広との対談、浅田次郎との〈幕末最強の刺客を語る〉というタイトルの新選組三番隊組長の斉藤一の話。ここで浅田次郎は龍馬斬殺の下手人をこの居合いの達人・斉藤一としているが、磯田は、犯人は京都見廻組以外にはないと反論している。

 お互いに対談相手への敬意を払いつつ、意見を闘わせながら互いに学ぶというという対談あるいは鼎談の醍醐味を味合わせてくれたこの本は、実に面白い高度な歴史談義であった。

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