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『死なれちゃったあとで』ノート


前田隆弘著
中央公論新社刊

 書店で平積みにされたこの本を見つけ、書名に惹かれて手に取った。著者の名前はこれまで聞いたことがなかった。

 著者の大学時代の後輩のDが、身近な人あての簡単な感謝と謝罪の言葉を綴り、最後に「情けない人生でした」と書き残して自死した。残された両親が、「もう息子のことを思い出す人間は誰もいない、忘れられた存在だ」というふうに残りの人生を過ごしていたらいやだなと思い、著者はご両親を種子島まで尋ねるのだ。
 ところが、ご両親の前向きに生きておられる姿をみて、一番引きずっているのは自分だと気づき、Dの存在が自分の人生に大きく関わっていたことに思いを馳せる。
「ダメ人間でも、工夫すればもっと楽しく人生を生きられるはず」――Dがそう言ったのか著者自身が口に出したのか、今となってはわからないが、しっかりと脳には刻まれているこの言葉を証明してみせるのが、Dの先輩である俺の義務だと書く。

 著者が25歳の時に、父親は職場の部下と海水浴に行き溺れて亡くなった。
 父親は、慣れない商売をはじめた従弟に借用書なしでかなりの金額を貸していたらしい。その彼が葬儀に来た。その姿をみて母親は、「これでチャラになった」と思っているとつぶやく。
 著者は、幼い頃からこれまで父親から月々の小遣いやプレゼントをもらったことがなかった。亡くなった後の父親の銀行口座には3万円しか残っていなかった。持ち家だし、母親はパートに出ており、自分も妹も働いているから日々の生活には支障はないにしても、下の妹はまだ高校生でこれから進学も控えているのに、どうするつもりだったのかと思う。そして父親は、生きていたら生きていたで、別の地獄が待ち受けていたのではないかと思うのである。
 しかし、母親の中で父の存在は、〈3万円しか残高がなかった男〉ではなく、〈〝太く短く生きる〟を地でいった男〉というところに着地していたのだ。父親は完全に幸せ者だと著者は思う。享年55歳。

 車道に開いた大きな穴に自転車に乗ったまま落ちて亡くなった女性の話。救急車待ちの間に、警備員のひとりが穴をのぞき込み、「あー、こりゃ死んどるねえ。助からんわ」とあっけらかんと言い放つ。その警備員と著者自身の、死の扱いの軽重のギャップに戸惑う。

 あるイベントで出会ったある芸能事務所の女性社長と打ち上げの二次会で隣り合わせになり、話をしたのだが、その翌日に彼女はひとり車で観光中にトラックと正面衝突して亡くなった。生前その人と最後に話したのは自分だと思い、人間は死ぬときはあっけなく死ぬ、予告なく死ぬ、あらゆる準備が無効化されて死ぬ、人知の及ばぬ範囲からそれはやってくると考え込むのだ。

 そのほか、著者が一緒に仕事をしている制作会社の社長の奥さんが自殺した話。「40歳がくるのが怖い」と書いていた作家の雨宮まみ(享年40歳)の突然の死などの話が続く。

 著者の母方の祖母は、自宅の畑で野菜を作り、それを近くの駅まで自転車で運んで売り、小遣い稼ぎをしていたが、あるとき自転車で転んでケガをした。即刻息子から商売禁止令が出て、自転車も取り上げられてしまう。そのころから祖母に認知症の症状が現れはじめる。
 商売禁止を息子から言い渡された時、祖母は自分の生きがいを剥奪されたと思ったのが直接の原因ではないかと著者は思っている。
 ほどなく認知症が悪化し、それから亡くなるまで10年近く入院していた。祖母は101歳まで生きた。著者は年に1、2回の帰省のたびにお見舞いに行っていた。著者の母親も祖母の畑で野菜を作るために、ひと月に一度は実家に通っており、お見舞いにも行っていた。
 一度も見舞いに来なかった親戚たちが、葬儀場で口々に「大往生だ」というノリで話していたのに著者は違和感を持つ。

 仕事に限らず、「それがなくなると、自分が自分でなくなる」という習慣や役割は、きっと誰にでもあると思うのだ。

 著者は、家族が祖母の生きがいを奪ってしまったこと、葬儀場でも火葬場でも101歳という数字に乗っかり、「大往生」という一言ですべてをチャラにして、イノセントな気分でいる親戚たちに苛立ちを覚えてしまう。

 死という重いテーマを、著者は悲しみ一色ではなく、日常の延長線上で起きたことのように捉え、時にはことさらおちゃらけた文章で綴る。

 劇団「悪魔のしるし」主宰の危口統之(きぐちのりゆき)が2016年12月に「疒日記(やまいだれにっき)」というブログを立ち上げ、自身の病気を公表する。そうするとお見舞いの申込みが殺到して、その日程調整ばかりに時間をとられ、「これではまるでスタジオの予約受付係だ」とブログで愚痴っていたそうだ。

 その中で著者にもっとも強い印象を残したのが、「デクノボー」という題の日記であった。
〈危口が病気になった〉〈重い病らしい〉〈実家に帰るらしい〉〈しばらくは入院らしい〉〈足腰も弱って歩けないらしい〉といろんな噂を立てられ、〈何かしてあげられることはないか〉という言葉に、危口は、「ないのだ」と一言のもとに切り捨てる。

 病を公表してから、危口のもとには多くの人から治療法や生活についてのアドバイスが届き、読み切れないほどの書物も届いて、本人が処理できるレベルをはるかに超えていたそうだ。危口を知っている人もそうでない人も、おそらく善意で、「なんとかしてあげたい」という気持ちからの行為だったのであろうが、一面、己のエゴを優先した行いでもある、と著者は書く。享年42歳。

 コロナ禍でお通夜は限られた身内しか列席できなくなったが、お通夜は、決して儀礼的なばかりでなく、亡くなった人を偲び、話をして多少は〝その人の死〟というものを消化できていたのではと思う。

〝人生の終わり〟は、当たり前かつ深刻なことのように思えるし、故人の周囲の人間にも大きな影響を与える出来事である。

 エピクロス曰く、「私たちが生きているときには、死はその私たちのもとにはないし、その死がやってきたときは、私たちのほうはこの世にはいない」。
 その意味で、人の死は、当人の死ではなく、そのまわりの人間にとっての死なのである。その〝死〟をことさら避けるのではなく、あえて本音で語り、書き綴る著者の思いは、この『死なれちゃったあとで』という書名に集約されている。

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