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誰かと比較されることと自己肯定感

こんにちは、Miaです。

私の中で自己肯定感とは、自分が頭が良いとか可愛いとか自分を持ち上げて思い込むというようなものではなく、自分でありのままの自分を受け入れる気持ちだと勝手に定義しています。

自分自身のことをすごくきれいだと思っているから私は自己肯定感が高い、というネット記事の一文を読んだ時に、少し違和感を感じたのはその人が自分はすごくきれいだと一生懸命言い聞かせて、思い込もうとしている感があったからです。

自己肯定感とは、努力で上げたり下げたりするものというよりかは、本当に自分の心が自分を受け入れているか、自分を信じているか、というもっと奥深いところにあるような気がしています。

今日はそんな自己肯定感について、ふと考えたことがあったので、書いていきたいと思います。

〇〇さんみたいになりなさい


私の旦那は幼い頃から母親に、


「よその〇〇さんの子はこうだから、あなたも見習いなさい」

「どうしてあなたは〇〇みたいにやらないの」


と言われ、常に誰かと比較されて育てられたと言っていました。

いまだに彼の母親は「あなたも親戚の〇〇みたいにあれやった方がいいよ」と悪気なく言うこともあるようです。

旦那はそんな自身の母親について、典型的な中華圏の母親タイプだと言っていました。

実は全く同じ話を、中華圏出身の母親を持つ私の友人からも聞いたことがあります。

その友人も、母親はとにかく褒めてくれない、あの子みたいにもっと〜しなさい、と常にどこかの誰かと比べては下げた言い方をされる、とこぼしていました。

他人と比べることがなくても、兄弟姉妹間で比較されるというのもよく聞きますし、中華圏によくあれど、国籍を限ったことでもないと思います。

もしかしたら今読んでくださっている方の中にも、常に比較されてきたなあと思う方もいるかもしれません。

誰とも比べなかった私の両親



これらの話を聞いてふと気づいたのは、私は親から今まで一度も誰かと比べてどうだと言われたことがないということです。

私の両親は、単純によその子に興味がなかったのかもしれませんが、今となってはそうやって他の人と比較せずに育ててもらったことに感謝しています。

というのも比較しない育て方のおかげで、自己肯定感についてあえて考えることもないほど、自分を受け入れながら生きてこられたからです。

自己肯定感が低くなってしまう時って基本的に誰かと比較して落ち込んでいることが多いと思います。

たとえば、

何かが出来ている誰かと比べて、
何で自分はこんなこともできないんだろう?

大切にされている誰かと比べて、
私なんてどうせ誰も愛してくれない

といったような誰かとの比較から始まっている気がします。

兄弟とも、友達とも、誰とも比較されることなく自由に生きてきたので、そもそも自己肯定感が低くなることとは無縁で過ごしてこられたのだと思います。

我が家の教育方針


基本的に我が家は野放し教育だったという認識なのですが、当時をふりかえり、うちって放任主義だよねと母に言ってみたことがあります。

母いわく、放任ではなくうちは自主性を重んじる自由主義。(ものは言いようですが笑)

他のお母さんみたいに、一緒に付き添って宿題解いてほしかった?
あの子みたいにあれしなさいとか早くこれしなさいって言われたかった?
そんなのアンタが無理でしょ?

とバッサリ。

でも本当にそういう教育方針だったら、私は縛られている感じがしてとても嫌だったと思います。

どちらかというと、私も自分で出来るからほっといてくれという可愛げのない子供だったなとも思います。笑

最後に


私は個人的に、今まで比較されて生きてきたかどうかは自己肯定感に与える影響があるのではないかなと思っています。

もちろん、スポーツでの勝ち負けは経験として大賛成ですが、誰かと比較して優劣があると考える必要はなく、人それぞれがありのままの自分を受け入れられるようになると、少し気持ちが楽になる気がしています。

今日も読んでいただきありがとうございました。

Mia







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