彼の名前はキム・ソクジン ⑤

-- 現在 --

  乗ってください。

顔を出した彼が言う。
大きく出した片手を振りながら見せる笑顔は、母親に向ける子供の様だ。

断る理由も見つからないまま、私は助手席のドアを開け乗り込む。

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かすかに漂う香りは、車の芳香剤かソクジンの香水か。
嫌いじゃない。


  驚かせました?


正面を見たまま、いたずら好きの少年のような笑みを浮かべる。


  どう言う事?


私はゆっくりと聞く。


  2人っきりで話したかったんです。ヌナと。


ヌナ。
ソクジンの口から初めて呼ばれた。
胸のずっと奥の方で、小さな小さなガラス玉が、割れた音が聞こえた気がした。
動揺していないと言えば嘘になる。


  どこへ行くつもり?


悟られないよう、さらにゆっくりと聞く。

静かなエンジン音。
かすかに揺れる車体。
ソクジン越しに見る窓の向こうに、街の灯りが流れていく。

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綺麗な横顔。

思わず見惚れてしまう。
私は深い深呼吸をした。


  おー、ため息?
  ごめんなさい。不愉快でしたか?


ソクジンが慌ててこちらを向く。


  運転中よ
  前見て、前


焦る彼に思わず笑みが溢れた。


  やーっ!よかった、笑ってくれた!


ズルい。
そんな優しい笑顔は、私の言葉を奪ってしまう。


  ヌナにお礼が言いたかったんです。


正面を見据えながら、ソクジンが話し出した。
職場で聞く声よりも、柔らかく落ち着いた声。
暗がりでもわかる、赤くなっている耳。


  入社した時から、ずーっと
  ヌナの事見てたんです。
  仕事ができて、美人で、憧れてました。

  だから、一緒に仕事ができるってわかった時、
  めちゃくちゃ嬉しくて。

  ヌナが推してくれたって聞いて
  もう絶対にヌナの力になろうって
  決めたんです。

  チームに入れてくださって
  ありがとうございます。


後半は早口で捲し立てるように喋り、ハンドルを持ったまま、軽くお辞儀をした。

純粋な子。
選ばれて当然みたいな態度の人もいればプレッシャーになる人、卑屈になる人もいる。


夜の闇の中、時折浮かび上がる横顔の輪郭はとても眩しかった。
もう、私が忘れ去ってしまったものを持っている輝き。


  そうだ、ヌナ
  後ろに紙袋あるので
  取ってもらっていいですか?


私は後部座席に手を伸ばす。


  開けてください。


茶色い紙袋の中には、リボンがかけてある小さな箱が入っていた。
その箱は、角が潰れていて、新しいものではない事は一目でわかった。


  ヌナ、誕生日だったでしょ?
  でもなかなか渡せる機会がなくて
  ずっと持ち歩いてたら
  箱が潰れちゃいました。


照れ隠しであろう引き笑いをしながら、ハンドルを3回叩いた。

私の誕生日は、もう3ヶ月も前だ。
それからずっと持っていた…
その事実だけで、顔が綻ぶのが自分でわかる。


  中、見てもいい?


そう聞くと、ハンドルを叩いた数と同じく大きく3回頷いた。

リボンを解く。
箱の蓋を開けると、一輪の赤い薔薇のブリザーブドフラワーが小さなガラスケースに入っていた。

私はソクジンの横顔を見つめる。


  ありがとう。
  とても綺麗…。


綺麗と言ったのは、薔薇かソクジンの横顔か。
冷静さを欠いているのが、自分でもわかる。
それを悟られないようにしている不自然さも、自分でわかっている。


星の王子さま


っは…
いい歳をして、何を考えているのか。
ソクジンと重ねるのには無理がある。

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きっと、夜が私をおかしくしているのだ。

ソクジンは。
ソクジンは、何を考えているのだろう。

  ヌナ?

2つ目のガラス玉が、胸の奥で大きく割れた。

やめて。
そんなふうに優しく呼ばないで。
ずっと、一人で生きて来た。
これからだってそう。

胸の中をぐちゃぐちゃに掻き乱される。


  
  うぇ?おー!やー

  ヌナ?
  なんで泣いてるの?

  おーやー うぇ?やー


言葉にならない言葉を発しながら、慌てて路肩に車を止める。

ソクジンの手が伸びる。


  泣かないで、ヌナ


私はすっぽりと、その広い肩に抱きすくめられていた。


  ヌナ?
  僕、何か悪いことしましたか?
  傷つけるようなこと言いましたか?


ソクジンに言われて、涙が流れている事に、初めて気がついた。

泣いたのなんて、何年ぶりだろう。

今はしばらく、このままでいたい。
流れ落ちる涙が、ソクジンのジャケットに染み込んでいく。

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どれくらいの時間が経っただろう。

5分なのか、1時間なのか。

ずっとソクジンは右手で頭を撫でてくれていた。

そっと体を離す。


  ごめんなさい。
  みっともないとこ見せたわね。


  やー。
  泣きたい時くらい僕にでもありますよ。
  そんな時は泣いたらいいんです。
  …よかったです。
  僕がそばにいる時で。
  1人で泣くのは良くないですからね!


ソクジンは、それ以上詮索はしてこなかった。

ありがたかった。
詮索されたところで、私自身、涙の理由がわからないのだから、答えようがない。

再び走り出した車は、ウィンカーの規則的な軽い音を立てながら、テールランプの赤い色が、川のように流れて行く中へ合流する。

涙の訳は、いったいなんなのか。
私は1人考えていた。

誕生日のプレゼントを他人からもらったのは
いったい何年ぶりだろう。

人の温もりに飢えていたのか?

うまくいったプレゼンのせいで、脳が興奮状態にあったのかもしれない。

そこにきて、こんなサプライズ。

全然まとまらない頭の中で、私は必死に涙に言い訳をつけようとしていた。

結論は見つからない。

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