彼の名前はキム・ソクジン ⑧


  ヌナ。
  今から話す事は、誰にも言ってはいけません。


手のひらをひらひらと動かしたり、時には手を重ねてみたり、ゆらゆらと体を揺らしながら。


  さっき、ヌナが心配してくれた
  ここの支払いのこと。
  全く気にしないでください。

  僕は、ここのホテルの所有者なんで。
  と、言っても経営は人任せですけど。


本当に。
今夜は何があっても、もう驚かないと思っていたけれど。
私は、背もたれにもたれかかっていた体を、勢いよく起こした。
ワインを口に含んでいなくてよかったと、後から思う。

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ソクジンの話はこうだ。


父親を早くに亡くしたため、会長である祖父が、このホテルをソクジンに与えた事。

本来なら、いずれ父親が後を継ぐはずだったが、亡くなってしまった今、父の弟である叔父が代わりをしている事。

私達の会社も傘下にあり、叔父が社長をしている事。
ただ、叔父には子供がおらず、いつか自分が跡取りになるかもしれないと言う事。


  はっきり言ってコネ入社です。


内緒話をする時のように左手を口に添え、ソクジンは、ちょっと困った様な笑顔で言った。

そうか。
彼から感じ取る品の良さは、間違いなく育ちの良さから来るものだったんだ。スーツの着こなしも、ちょっとした立ち居振る舞いも、腑に落ちるところが多々ある。


  この話は、社長である叔父しか知りません。
  トップシークレット中のトップシークレット。

  母は、とても心の優しい人で
  父がいなくなってから
  こう言う世界では
  精神がもたなくなってしまって
  家を出てしまって。


そう言うと、顔をあげ遠くを見つめた。
ふぅ〜っと大きく息を吐き、顔を下ろす。

  僕は、世間一般には
  母と一緒に家を出たことに
  なっているんです。
  財産とか、権力とか
  もっと大事なものはたくさんあるのに。


ほんの一瞬だけ見えた、ソクジンの瞳の中の怒り。


  ごめんなさい。
  秘密を押し付けてしまった。

  でも、僕は下手な情報から
  変な印象を植え付けられたくなかった。
  自分の力を試したかった。

  それをちゃんとヌナに知って欲しかった。


普通ではない環境の中で、人一倍努力を重ねてきたんだな、と言う事は、今のソクジンを見ていればわかる。
もし、最初からその事実を知っていたなら、きっと私は同じチームには誘わなかった。
名乗りを上げれば、正当な跡取りであるのに。
地位にあぐらをかいている人が多い世の中で、なんて人なんだろう。

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尊敬に値する人。
私より年下で、尊敬できる人に出会えた事がとても嬉しかった。


  ソッチニ
  辛くなかった?


ソクジンはゆっくり瞬きをして、目を開けると同時に、柔らかい笑顔を浮かべた。


  いえ、こうやってヌナと出会えて
  ヌナに認めてもらって
  報われましたから。


  ありがとう。


そう答えるのが精一杯だった。

私が計り知れない、違う世界の苦労と努力。
考えると、胸が苦しくなる。
それを笑顔で答えるソクジン。

強い人だなと思う。
強い分、折れてしまう力も強い。

彼が折れてしまわないよう、支えたいと思った。
何をどうすればわからないけれど、この笑顔だけは守りたい。そう思った。

だが、知ってしまった今、私はどうすべきなんだろう。

ワインクーラーの水滴が時間の経過を物語る。

ソクジンは組んでいた手のひらを開き、ゆっくり瞬きをしては微笑み、また手を合わす。

  ヌナ?
  きっと今、これからどうすればいいか
  考えているでしょ?


気の回し方、使い方。
そう、ソクジンはこう言う人だ。
何も言わなくても伝わってしまう。

これが、自然にできるようになってしまった経緯は、もしかしたら、大人の顔色を窺いながら培ってきたものなのかもしれない。

もしそうなら、とても切ない。

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