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2021 あさま山荘事件の印象評

■一九七二 坪内祐三 文藝春秋 2020年

 作者は一九七二年を境に理解できる年代とできない年代がいるという。今から約五十年前の話だ。
 分水嶺となった一九七二年の出来事を辿った評論で、私はあさま山荘事件についてのくだりを読んでいる。
 あさま山荘事件は学生運動の果てに集団リンチ殺人に至った事件だが、当時の作家があさま山荘事件について包括的にとらえられていないという文章を読んで、私はナイーブな反応だなと思った。当時の日本ではそれだけショッキングな出来事だったということだろう。

 殺された人数の多寡で判断することではないが、世界にはもっと残酷な虐殺事件が溢れている。それらの事件は、あさま山荘事件ほど被害者・加害者・介入した人間が多角的で精緻な考察を残していないような気がするのだ。
 世界の残酷な事件には、矮小化されたり逆に誇張されたりするような心象が働きがちだ。なので真実がわかりづらい部分があると思う。
 あさま山荘事件には殺した側のショックというか、トラウマがあるような気がする。そしてそれを社会が共有する時代の空気があった。そんな気がする。

 世界の残酷な虐殺事件になぜ加害者のトラウマを感じることが少ないのだろう。おそらくそれは「自分が殺した人間が自分と同じ人間に見えていたか否か」の違いだろう。
 彼らは家畜を殺したのだ。人間の言葉を喋る家畜。だから彼らの殺人には「自分と同じ人間を殺した」というトラウマがないのだと、私は何となく実感した。
 
 あさま山荘事件には、自分と同じふつうの人間が、ささいな理由で集団リンチ殺人を犯す恐怖心とトラウマがある。自分と同じ人間が、同じ人間に見えなくなる集団の狂気への恐怖がある。
 あさま山荘事件はショッキングな事件であることには間違いないが、人間を「家畜」化して虐殺してきた歴史よりはまだ「人間的」であるように、私には見えたのだ。
 事件の本を読み進めたときに、また感想を書き留めておきたいと思う。

 山岳ベース事件(あさま山荘事件)の話のつづき。

 前回私は世界の虐殺事件(スターリンやポル・ポトなど)に比べたらまだ人間的かと思っていたのだが、虐殺された人々の経緯を見ているとやはり凄惨な事件だと思った。
 当時テレビの中継や雑誌など事件を追っていた一般人でさえ、時代のトラウマになるようなショッキングな事件だったんだな、と。
 新左翼はスターリニズムからは距離を取っていたと思うのだが、やっていることは一緒だというところに怖さを感じた。どうして極端に高邁な革命思想は最後に虐殺と結びつくのだろう。

 そして連合赤軍の極端に潔癖な革命思想は女性の性の排除に繋がるのだった。大塚英志の『「彼女たち」の連合赤軍』にも永田洋子が女性たちを殺すことで自分の女性性をも排除したというような内容の話が書いてあったが、実際はどうだったのだろう。
 連合赤軍は赤軍派と日本共産党革命左派(革命左派)の連合である。女性が補助的な役割しか負えなかった赤軍派と比べて、革左はフェミニズム的な思想を前面に打ち出していたそうだ。

 が、 革命左派のフェミニズムは地に足が着いたものではなかった。永田洋子が革命左派の闘士でありながら男に媚びを売る格好をしていたという理由で女性たちを殺していったことにもそれが窺える。
 永田洋子の性体験が指導者の川島豪のレイプから始まっており、それゆえに永田洋子が女性性を嫌悪するようになっていったという。
 虐待された者が弱い者を虐待していくという連鎖反応に、私はいたたまれないものを感じる。


 ウィキペディアでは「1983年の判決(死刑)では、山岳ベース事件は永田が主導したものとされ、その原因を永田の「不信感、猜疑心、嫉妬心、敵愾心」「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」だとした。」と書いてあるのだが、「永田に次ぐ地位にあった坂口弘は、事件は森主導で永田は森に追随したとしている。」とも続けている。


 実際に事件が永田洋子主導だったのかどうかは今の私にはわからない。
 が、新左翼の男たちの矛盾から生まれたウーマン・リブの活動家、田中美津によれば「男より、より主体的に男の革命理論を奉ろうとすれば、女はみな永田洋子だ。男に向けて尻尾をふるこの世の女という女はすべて永田洋子なのだ」という。
 「男に媚びたい自分と媚びたくない自分のあいだで引き裂かれる」、そのことに「取り乱し」ながら女は生きていくと田中美津はいう。私はその意見に親和性を感じる。


 ウーマン・リブとフェミニズムは田中にとっては違う思想であるらしい。印象評だが、私は清濁併せ呑むウーマン・リブのほうに惹かれる。フェミニズムには、新左翼の男たちに見られた「高邁な理想」ゆえの潔癖さ、狭量さを感じることがあるのだ。
 フェミニズム的なものに惹かれながらも受け入れられない部分がある。それを田中美津は「取り乱し」とひとことで説明した。
 私も男性性と女性性のあいだを揺れ動きながら「取り乱し」て生きていくのだと思う。田中美津のように、永田洋子のように。

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