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「蒸す」から餃子を考える 

私が生まれた年、1960年は第二次世界大戦が終わって15年しか経っていない。小学校でそんなことを教えられて妙に不思議を感じた。私は焼け野原なんて見たことはない。でも人間とはなんて強いのだろうと思った。

高度成長期と後年に学者から名付けられた時代、私は愛知県豊川市で生まれた。父の勤めていた会社の社宅はその時代のスタンダード、昭和を知る人間であれば誰もが郷愁を感じる4階建て2DKの鉄筋コンクリートのアパートだった。
我が家ばかりが貧乏だったのではないだろう。当時、同級生の家に行けばどこも似たようなものだった。
兄の部屋も私の部屋もない、ならばすべてがごっちゃになっていたかというと、そうでもない。物が無かったのである。そんな時代であった。
カーテンも無い部屋に兄と二人で寝た。布団から見上げる冬の夜空で私は星座をおぼえ、天の川に心打たれた。夏の夜は狂った蝉の泣き声を聞き、人生のはかなさを思い一人布団で泣いた。

小さなダイニングキッチンは北向きで日中も明るくはなかった。でもそこは母が帰って来て私たちに背を向けて台所に立つと活気と明るさに満ちた。何が出来るのか楽しみで兄と母と三人で話しながら過ごす時間は幸せだった。
私が「蒸し」を初めて知ったのはその頃であった。母には必需品だったのであろう、ずいぶん使い込まれたぶ厚いアルミ製の蒸し器があった。山形の農家出身の母はそれでよく赤飯を作ってくれた。ゴマ塩といつもセットだったのが懐かしい。赤飯も記憶に残る母の味である。そして、蒸し器が出てくるといつもワクワクしたのが茶わん蒸しだった。あの出汁のきいた滑らかな触感が好きだった。そして口のなかを火傷しても熱々のうちに食べたかった。
美味しい「蒸す」の記憶である。

高校二年の時に台湾にしばらくいた。その時に台湾の母、黄絢絢コウケンケンから絢絢たちは食材の一番新鮮なものは日本のように「生」で食べずに蒸して食べると教えられた。素材の新鮮な順に「蒸す」「生」「煮る」「焼く」「揚げる」で食べたらいいと教えられた。好みで調理すればいいのだろうが、とにかく美味いものは新鮮なうちに蒸して食べなさい、と教えられた。絢絢に連れていってもらった料理屋の蒸した魚が美味かった。調理場から運ばれてきた蒸籠せいろの蓋を上げるとなんとも言えない香草と海の混ざった幸せの香りが私の鼻に入り込んできた。皿の上の白身の尾頭付きのその魚を絢絢のお母様が上手に骨を外して私に取り分けてくれた。箸をつけると口に広がったのは甘い海の味だった。子どもの頃によく泳いだ太平洋岸で波に呑まれて飲み込んだ海水の味をなぜか思い出したのである。「美味い」と「記憶」はセットである。どうでもよいような記憶を「美味い」は時々引き出してくれる。

その後、紆余曲折はあったものの数年後には大学生となり、合気道に明け暮れる日々が続いていた。昔も今も貧乏学生が東京を知るには金が要る。大学の稽古を終えて近くの千川通りと環七が交差したあたりにあった高級中華料理店に合気道部の先輩に紹介してもい皿洗いを始めた。厳しい調理場の実態を知ったそこも体育会系の世界だった。アルバイトであったが厳しく優しく育てられ、そのうち当時1杯が1,000円もするラーメンは私の担当になっていた。

そこで出会ったのが餃子の「蒸し」だった。餃子は事前に包んで冷蔵していた。メリケン粉をねて同じ大きさに切った生地を大きな指で潰し、綿棒を転がし丸くしていた。そして、エッと思うほどの餡を載せて伸びるぶ厚い皮でしっかり包んでいた。それを冷蔵庫で寝かしておくのだ。オーダーが入ると五粒を蒸籠で蒸すまでが私の仕事だった。「おい、宮島!」と、時間が来ると熱々の蒸籠を身体の大きな鹿島さんに手渡した。油を引いた熱い中華鍋に餃子を転がし入れて鍋を回しながら向きを整えた。

その時なるほどな、と思ったのである。焼いてから熱湯を注いで焼き蒸すのか、蒸した餃子に焼き目を入れるかである。どちらが美味いのかは分からない。でも蒸し上がった餃子の皮は薄く透き通り、餡の肉汁と野菜の水分と調味料は餃子の「包」の中で煮えたぎっていた。「ああ、この中で調理されるのか」と納得したのである。

餃子の美味さはどこにあるのであろうか。素材の良し悪し、調理法の違い、調理者の違いがそれになることもあるのだろう。どこのお母さんも、どんな料理人も少しでも美味い餃子を食べてもらうために知恵を絞り調理場に立つ。
すべては経験なのかもしれない。食べて味を知る経験、作って人に食べてもらい喜ぶ顔を見る経験、餃子を作る過程以外に知らねばならない経験もあるように思う。

考えれば、これは合気道の師である市橋紀彦先生に大学卒業時に言われた「合気道の稽古は畳の上だけではない、この先の生きるすべてを合気道だと思え」と同じなのかも知れない。
生きることすべてが料理につながるのかも知れない。そして美味い餃子作りにつながるのかも知れない。
そう考え、この先身体が続く限り合気道を続けるように、ずっと餃子を食い、上手い餃子を作っていきたい。

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