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私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) ともに仕事した私の多くの仲間たち

私がゼネコンに入社した1985年(昭和60年)は日本がバブル景気に突入する直前、現在の日本しか知らぬ若者たちには信じられないほどの活気に満ちあふれた時代であった。
入社式で社員1万人の退職金をキャッシュで支払うだけの銀行預金を持っていると本社経理課長が説明したのを指で計算しながら、なんだかすごいなぁと思ったのを記憶している。
後発のゼネコンであったたが当時の経営者達の知恵と度胸、先輩達の並々ならない努力の賜物で大手ゼネコンに食い込み、受注額1兆円をゼネコンで初めて突破して飛ぶ鳥を落とす勢いの会社だった。
(ちなみにこの頃のゼネコンでは社員一人に対して受注額1億円というのが会社受注額の目安だった。1万人×1億円=1兆円。現在では2倍くらいになっているようである。)
言ってみればそんな良い時代に私は入社し、多くの先輩方に育ててもらった。でも、その職員すへてが土木、建築の技術職員や営業のように表舞台に立つ者ばかりではなかった。
私が営業として独り立ちするまでに、そしてその後も、舞台裏から私たちを支えてくれた多くの職員がいる。私はそんな人たちに助けられ一人前になれたのである。
今回は歯車の一枚であった私とともに同じ歯車として回ってくれた私の記憶に残る仲間たちのことをここに記録しておきたい。営業マンとしての、いや、今の私があるのはこの仲間たちを欠いては考えられないからである。


私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) ともに仕事した多くの仲間たち

この頃の毎朝も早かった。決闘場に向かう武蔵のような心境だった。誰よりも早く会社に入ろうと思っていたが、いつも運転手さんたちが早かった。運転手さんたちは朝の早い支店長を迎えに行ったり、朝の早い営業部長を待っていたり、遠い現場に向かって行ったりと、とにかく早い朝からわさわさしていた。
そして、時々京都営業所の運転手さんの顔を見ることもできた。
「宮島君、元気にやっているかい」と優しい声をかけてもらうと、なんだか京都時代を思い出し、泣きたい気持ちになったのを憶えている。そんな私の顔を運転手さんは見逃さずに「美々卯にうどんすきを食いに行こう」と誘いの電話をくれた。御堂筋大ガスビル裏の美々卯本店で温かなうどんすきをご馳走になった。

会社の職制で運転手さん達は私より低い資格だった。多くの運転手さんは高度経済成長期にダムやトンネルの大現場で採用になった方が多かった。現場が竣工して大阪支店に移動となったのである。資格が下ならば給料も当然安くなる。なのに私を誘ってくれたのである。「いつも支店長の接待の土産をここに買いにこさせられるばかりで1回座って食べてみたかった」とおっしゃった。私はビールを勧められ断りながらも1本だけいただいた。運転手さんは飲まなかった。プロである。仕事のあるウィークデーは一切アルコールには口をつけないと言った。支払いはやはり手伝うことはさせてもらえなかった。私は腹も胸も一杯になり、運転手さんは御堂筋を北に向かい、私は南に向かい別れたのである。

よく上司の接待伺いを手にして経理課や総務課をうろうろした。「また来たな」といつも私をからかう総務の少し年上の男性がいた。彼は子どもの頃に脳性麻痺を患っており、できる仕事は限られていた。でもいつも胸を張って元気に仕事をしていた。
当時まだ大阪支店に電話の交換手さんがいた。視覚障害を持つ女性だった。私より後に入って来た女性だったからよく覚えている。非常に記憶力の良い女性だった。人一倍努力して私たちの名前を憶えてくれた。別に恋していたわけではないが、アクリルのパーテーションの向こうに座っている姿を見るとなんだか切なく思ったものである。
障害者雇用促進法は私の生まれた1960年に施行されている。それに則って彼や彼女たちもいたのだろうが、普通に会社に溶け込み毎日当たり前に接していた。何の違和感もなく毎日を過ごしていた。

よその業界をそれほど知らないのだが、ゼネコンで最後の会社人生を送った行政のOBってのは結構多かったんじゃないだろうか。営業部に中央官庁、近隣自治体のOBがわりとわんさかいらっしゃった。本人の定年までの所得以上の利益となる工事額の土産を背負ってやって来るのであるが、なんだか私の目には楽しそうな最後の会社生活には見えなかった。それでもなかには驚くほどのパワーを持ったOBもいらっしゃった。そんなことが可能なのかと思うようなこと、今もここには書けないことがあるが、例えば公有地の買収や難しい許認可の取得など、役所も人間関係なんだなと思ったものである。

その頃から国鉄の解体が進み、1987年に分割民営化となった。この頃多くの国鉄マンがいろんな業界に旅立ったのではないだろうか。ゼネコンばかりじゃないだろう。入社して3ヶ月の英語研修にも、そのお一人はいた。50歳は過ぎていたと思う。まだ若い私たちに必死に合わせ溶け込もうとしていた。でも、父親の年齢と変わらぬその方と仲良くなれた奴はいなかったと思う。私にそこまでできるだろうかと思ったものである。大阪支店にも国鉄OBはいらっしゃって腰軽く動く方であったが、JRの仕事は儲からなかった。

そして新聞社のOBもいた。五大紙の一社の元記者がいた。ゼネコン各社に必ず一人こんな顧問がいると聞いた。彼らの役割はある意味談合である。毎日昼間からマージャンをし、仲よく酒を飲むのである。そして万が一建設現場で死亡事故を起こしてしまった時に各社は報道制限をかけて死亡事故を外部に漏らさないようにするのである。そのために新聞社のOBはいたのである。


私は社会人となり15年ほどの歳月をゼネコンで過ごし、この期間に今ある私の基礎が作り上げられたように思います。多くの上司や同僚たちに育てられて今があるように思います。確かに時代は良かったと思います。そこそこの仕事をやり、仲良しこよしで生きることに抵抗さえ無ければ幸せに生きていける時代でした。でもそれが崩れガラガラと音をたてる時代がやってきます。苦しみもがくことも人生のなかで一度くらいあっても良いのかも知れません。
そして、人間は崖っぷちに立たされなければ本性は表わすことをしません。「ああ、この人が、」なんてことも早くに経験しておいた方が良いのかも知れません。

この(ゼネコン営業マン編)はもうしばらく続きます。個性的な営業マン達と出会って私の人生観は変わっていきます。一番辛かった時期かもしれません。


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